コラム
■ 野村忠央先生(文教大学教授)のコラムを掲載していきます。
第9回「祓(はら)い清める、水に流す」(2024年12月26日掲載)
第8回「文書作成編集機器の変遷」(2024年11月14日掲載)
第7回「数量詞の作用域のはなし」(2024年8月19日掲載)
第6回「不定詞標識toと法助動詞shouldの類似性」(2024年6月28日掲載)
第5回「長谷川欣佑先生の思い出」(2024年3月27日掲載)
第4回「言語学者の発音」(2024年3月11日掲載)
第3回「(to)不定詞、原形、語幹、語根」(2024年1月22日掲載)
第2回「ラズニックとチョムスキー」(2023年12月26日掲載)
第1回「Don't worry. I'm wearing!の笑いと英語の目的語の必要性」(2023年11月20日掲載)
■ 篠﨑剛先生(昭和第一学園高等学校英語科教諭)のコラムはこちら(2024年7月2日更新)
認知言語学の嚆矢の一つであるLakoff and Johnson (1980) のメタファー論は修辞学研究者だけでなく、言語学研究者全般に大きな影響を与えたと思われる((1) 参照)。例えば、TIME IS MONEY(時は金なり)という概念メタファーの諸例 (2) は日本人にも実感を持って理解できるものと思われる。
(1) | Metaphor is for most people a device of the poetic imagination and the rhetorical flourish—a matter of extraordinary rather than ordinary language. Moreover, metaphor is typically viewed as characteristic of language alone, a matter of words rather than thought or action. For this reason, most people think they can get along perfectly well without metaphor. We have found, on the contrary, that metaphor is pervasive in everyday life, not just in language but in thought and action. Our ordinary conceptual system, in terms of which we both think and act, is fundamentally metaphorical in nature. メタファー(隠喩)と言えば、たいていの人にとっては、詩的空想力が生み出す言葉の綾のことであり、修辞的な文飾の技巧のことである。つまり、通常用いる言葉というよりは特別改まった表現をする際の言語のことである。それに、メタファーというのは言語だけに特有のものであって、思考や行動の問題であるよりは言葉遣いの問題であると普通一般には考えられている。したがって、大部分の人はメタファーなどなくとも、日常生活はなんら痛痒(つうよう)を感ずることなくやっていけるものと考えている。ところが、われわれ筆者に言わせれば、それどころか、言語活動のみならず思考や行動にいたるまで、日常の営みのあらゆるところにメタファーは浸透しているのである。われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいている概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立っているのである。注1 (Lakoff and Johnson 1980: 1、日本語訳は渡部他訳 1986: 3) |
(2) | a. | You’re wasting my time.(君は僕の時間を浪費している) | ||||
b. | This gadget will save you hours.(この機械装置を使えば、何時間も節約できる) | |||||
c. | I don’t have the time to give to you.(君にやれる時間の持ち合わせはないよ) | |||||
d. | How do you spend your time these days?(この頃どんなふうに時間を使っているの) | |||||
e. | That flat tire cost me an hour.(あのパンクしたタイヤを修理するのに1時間かかった) | |||||
f. | I’ve invested a lot of a time in her.(彼女には随分時間をさいてやったよ) | |||||
(Lakoff and Johnson 1980: 8-9、イタリックは原著者、 日本語訳、下線は渡部他訳 1986: 9) |
その他、彼らはARGUMENT IS WAR(議論は戦争である)など数多くの例を挙げている。注2
その後、彼らの研究に基づいて、日本語も英語も多くのメタファー研究がなされているが、日本史にも関心がある私は以前から以下のようなことを思っていた。
(3) | 穢れが除去され、罪が許されることは、汚れをきれいにすること、水で洗い流すことである。 |
例えば、「祓(はらい)」は宗教的な罪や穢(けがれ)、すなわち、災厄、汚穢(おえ、けがれ)、罪障(ざいしょう)などを祓って身心を清めるために行う神事である。「祓う」は(塵や埃を)「払う」と同語源である。
そして、(3) の「きれいにする」の日本人の典型的な行為は「水で洗う」ことである。例えば、「禊祓(みそぎはらい)」は「水で身を清める」ことである。神社で典型的に唱えられる「祓(はら)え給い、清め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え」にもそれが現れている。また、修験道などの「垢離(こり)」は神仏に祈願する時に冷水を浴びる行為のことだが、水垢離(みずごり)、水行(すいぎょう)とも言うように、やはり「水で清める」ことである。また、(洗濯物、手足を)「すすぐ(濯ぐ)」、(口を)「漱(すす)ぐ」は「洗う」、「ゆすぐ」と同意であるが、「恥を雪(すす)ぐ」、「汚名を雪ぐ」、「雪辱」(せつじょく=辱(はじ)を雪ぐ)なども (3) が当てはまる例である。
また、我々の日常会話の「水に流す」(=過去のことを忘れる、なかったことにする、許す)という表現はまさに上記の日本人のメンタリティーに合致する表現である。現代人の「政治家の禊(みそぎ)」の比喩もそうであろう。
政治評論家の三宅久之(1930-2012)注3が晩年、テレビ朝日『ビートたけしのTVタックル』で「(大臣になるべき)政治家には何が求められますか?」の質問に、「政治家はいつも身綺麗にしておかなきゃいかんですね」という趣旨のことを答えていた。この場合の「身綺麗」は衣服や恰好のことではなく、「やましいことがない、スキャンダルがない」ということである。「清廉潔白」という表現にも「清い」という漢字が入っているが、同じことを意味している。
私は今号の内容で何か新規性を主張するつもりはないが、(3) は日本人が共通に持っているメンタリティーの反映であると思う。最後に、「祓(みそぎ)」の由来についても一言記しておくと、それは日本神話の伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が、火の神を産んで亡くなってしまった伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉(よみ)の国から連れ戻そうとするものの、変わり果てた姿の伊弉冉尊を連れ戻すことはできず、逃げ帰ってくる「黄泉返り(よみがえり)」注4の故事に由来する。すなわち、伊奘諾尊は穢れた身を日向国の橘の小戸の檍原(たちばなのおどのあはぎはら)で洗い流し、清める訳だが、これが「禊祓(みそぎはらえ)」の始まり、「祓(みそぎ)」の由来となる。
さて、本号を閉じる前に、小さい頃、毎年、遊びに行っていた北海道岩見沢市の外祖母の家(北海道にほとんどなくなっていた帽子店を営んでいた)に、萬屋錦之介(1932-1997)主演で映像化された人気時代劇の原作、漫画『子連れ狼』が置かれてあった。私はその漫画を、祖母宅に泊まる時に布団を敷いて休む、電熱球の薄暗い部屋で読んだのだが、下記は第1巻で主人公元公儀介錯(かいしゃく)人の拝一刀(おがみいっとう)が刺客道に進み、自分を陥れた柳生一族(裏柳生)に復讐することを一子大五郎に告げる場面である。(なお、偶然ながら、本号の話題の「恥辱を雪(そそ)ぐ」という表現が (4) でも見られる。)
(4) | 介錯人拝一族の恨みを晴らし 受けた恥辱をそそぐため 士道をすて 冥府魔導(めいふまどう)に生きる鬼となるのだ よく聞けい大五郎 これからの父は 血と屍の道 殺戮と非情の刺客道をたどる! 刺客道をたどることによってこそ 介錯人拝一族が受けた鬼哭(きこく)のうらみを 刺客人柳生一族に叩きつけることができるのだ! 大五郎! おのれの道はおのれで選ぶがよい! 胴太貫(どうたぬき=名刀の一つ)をえらばば父と共に刺客道へ 手まりをえらばば 亡き母のいる黄泉の国へ送ってやる (小島・小池 1972: 258-259) |
赤ん坊の大五郎は手鞠に興味を示しつつも、結局、胴太貫を選んでしまう。小学校低学年だった歴史好きの私は越前国とか武蔵国とか上総国とかいった旧国名を比較的知っていたけれども、(4) の場面を読んだ時、子供心に「あれ、黄泉国という国ってあったっけ? お母さんのいる黄泉の国に送るって、大五郎のお母さんはさっき柳生に斬られたんじゃなかったけ?」などと思っていた。黄泉の国が死者の国だ(つまりは、大五郎が手鞠を選んだら一刀は大五郎をあの世に送るんだ)と理解できたのはもう少し年長になってからのことだった。
(注1)今は認知言語学、認知意味論の日本語の入門書は数多あるが、私が学んだ頃はそういう入門書はなかった。例えば、初めて認知言語学を学んだ時、(本号の話題の)「『メタファー』をなぜ従来からある日本語の『比喩』と呼ばないのか、また、修辞学の『比喩』の用語と『メタファー』は何が違うのか」などいくつもの疑問があったが、よくわからなかった。そんな状況だったので、河上編 (1996) が刊行された時は有難いと思った。(花瓶か水挿しかの例示で、明石家さんま(1955-)が犯人役のドラマ『古畑任三郎』(主演:田村正和(1943-2021))第2シーズン14話「しゃべりすぎた男」(1996) が引用されたことでも話題となったように思われる。)研究社の同じシリーズだが、ミニマリスト・プログラムを学び始めた当時の大学院生たちも中村他 (2001)で同じことを思ったかもしれない。
余談だが、読者諸氏は近代英語協会会長でもあった秋元実治先生 (1941-) は文法化、イディオム化、史的理論の研究者だと理解されていると思うが(秋元編 2001、秋元 2002、20142、秋元・保坂編 2005など参照)、私が入学した頃の青学大学院の授業では認知言語学のTaylor (19952) をテキストに使われていた。
(注2)彼らはSEEING IS UNDERSTANDING(見ることは理解すること)という例も提示している。前号の注3で言及した中1担任の大竹伸一先生はいつも理科の授業で「話、見えるか(=理解しているか)?」と言われていたが、英語のYou see?と同じ感覚の使い方だと思った。
その大竹先生は帰りの学活(ショートホームルーム)の伝達事項が終わると、必ず「よ〜し、消えるべ!」と言われて、学級代表の私は終礼の号令を掛けていた。しかし、我々生徒はみんな「消えるべ!」と理解していたのだが、よくよく先生に伺うと「よ〜し、帰(けえ)るべ!」と言われていたということだった。先生は確か函館のご出身だったと記憶しているのだが(1947年生まれ)、同じ北海道方言でも札幌などの内陸部方言と函館などの海岸部方言、いわゆる「浜言葉」は随分違うものだと思ったものである。
(注3)三宅氏の座右の銘は「愛妻、納税、墓参り」であったが、その他、心に残る言として「民主主義とはとてつもなく愚劣で手間の掛かる方法だけれども、他に方法がありますか!」、「民主主義はコストが掛かるんです」がある。この言は日本国民全員が一度は考えるべきことである。
(注4)若い人はもう知らない人の方が多いと思うけれども、「蘇る」の語源は「黄泉(の国から)帰る」である。
言語学の重要な論点の一つに「個体発生は系統発生を繰り返すか」という問題があるが、私は「少なくともいつでもそうではない」と考える。例えば、この「蘇る」や「瞬く間に」は子供はそのままの意の語彙項目として覚え、大人になってから「死者の国から帰る」、「ウインクするぐらいの短い時間で」ということを知識として知ると考えるべきである。
また、英語についても、法助動詞が歴史的に根源的用法から認識的用法が発達したことは周知の事実であるが、英米人の子供が全ての法助動詞について先に根源的用法を学んでいるというような証拠はあるのであろうか。例えば、mayやmightは副詞のmaybe(ひょっとすると)も含め、認識的用法の「〜だろう」を先に習得しているように思われる。
参考文献
秋元実治 (2002, 20142)『文法化とイディオム化』東京:ひつじ書房.
秋元実治編 (2001)『文法化―研究と課題』東京:英潮社.
秋元実治・保坂道雄編 (2005)『文法化―新たな展開』東京:英潮社.
河上誓作編 (1996)『認知言語学の基礎』東京:研究社.
小島剛夕・小池一夫 (1972)『子連れ狼 鏤骨之章』東京:双葉社.
Lakoff, George and Mark Johnson (1980) Metaphors We Live by. Chicago: University of Chicago Press.
渡部昇一・楠瀬淳三・下谷和幸訳 (1986)『レトリックと人生』東京:大修館書店.
中村 捷・金子義明・菊地 朗 (2001)『生成文法の新展開:ミニマリスト・プログラム』東京:研究社.
Taylor, John (19952) Linguistic Categorization. Oxford: Clarendon Press. 辻 幸夫訳 (1996)『認知言語学のための14章』東京:紀伊國屋書店.(その後、原著は2003年に、翻訳は2008年にそれぞれ第3版が出版されている。)
追記 今号の原稿は10月に記しているのだが、先日、10月6日(土)の日本英文学会北海道支部第69回大会(於:北海道教育大学旭川校)、及び10月19日(土)の英語語法文法学会第32回大会(於:大阪公立大学杉本キャンパス)の会場、懇親会でこのコラムのことを知らせていない複数の方から「野村先生のコラム、毎月、楽しみに読んでいます」という趣旨のことを言われ、有難いことであった。
早いもので、忙しい毎日の中、この連載を始めてほぼ一年となる。一年前にこのような執筆の機会を筆者に与えて下さった開拓社編集部の川田賢氏、及び毎回、煩雑であろう原稿のアップ作業をして下さっている開拓社のシステムの方に改めて感謝申し上げる次第である。
私は1972(昭和47)年生まれだが、人生の中で文書作成編集機器の変遷をそれなりに見てきた世代だと思う。今号はそのことをまとめておきたい。
小学生時代(昭和50〜60年代=1970〜80年代前半)の先生方は基本的に小テストも授業プリントも手書きのガリ版だったと思う。しかし、家庭訪問や学級懇談会のお知らせは担任が和文タイプライターを使用して作成していた。千字ぐらいの漢字から選んで一字一字打つ手間の掛かる機械で、英文タイプライター注1のように早く打つ注2ことを目的としてはとても使用できなかったと思う。
中学生時代(昭和60年代=1980年代前半)の先生方は中1〜中3のどの担任の先生方も学級通信を作成されていたが、全て手書きだった。記憶が正しければ、1年1組(担任は理科)が「七転八起」、2年1組(担任は国語)が「清風」、生徒数が増えて2ヶ月後にクラス増(クラス替え)になった2年7組(担任は体育)が「Dash」、3年1組(担任は美術)が「Sunいち」という名前の学級通信だったと思う。注3 私は昭和一桁(1930年代)生まれの教員に習った最後の世代だと思うが、定期試験はほとんどの先生が手書きで、若い先生がちらほらワープロ(ワードプロセッサ=word processor:文書作成編集機)を使い始めていた。(ちなみに、私が初めてワープロを見たのは小学生の時に習っていた珠算教室の先生(建築士の資格もある方でいわゆる「青焼き」の建築図面やコピーを使用されていた)がお持ちのワープロだった。)国語の先生は綺麗な字で現代文や古文の本文を縦書きの二段組で書かれていたが、大変な手間だったと思う。英語は中1の教科担任が英語が堪能な、留学経験のある若い女性教員だったが、定期試験の英語本文は英文タイプライター、問題文の日本語が手書きだった。中2、3の教科担任はベテランの男性英語教員だったが(元々は理科教員だったと伺った)、テスト本文は英語も日本語も全て手書きだった。印刷は藁半紙で、上質紙は滅多なことでは使用されなかった。注4
高校時代(高校1年冬休みの昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御され、平成が始まった=1980年代後半)の英語の定期試験は4人の教科担任が25点ずつ問題を作り、交替で定期試験の原稿を作られていたが、高1の(教科)担任が作成される時は上記同様、英文タイプライターと日本語の手書きの混在だった。しかし、その先生がワープロを購入されてからは全員がワープロの定期試験となった。
大学時代(平成初期=1990年代)の定期試験は全文ワープロの先生もいたが、大学所定の試験用紙に手書きで問題を書かれる先生もまだ少なからず残っていた。例えば、英語の試験では大学英語教科書の出題ページをコピーしたものを貼り付け、そこに引く下線や問題文は手書きという感じである。注5 なお、ドイツ語の先生方は全員、ウムラウトの文字もきちんと出るワープロを使用されていた。英語教科書の教授用資料に本文のテキストファイルが付属している、あるいはスキャナーが高度に発達している今の世代の先生方には理解できないことであろうが、多量の英語本文を打つ、用意するということは実に大変な作業だったのである。
大学のレポートは全て手書きで出した。教育実習の研究授業の教案も指導教諭(上記、高1担任の三澤映治先生、元々は大学で西洋史学を勉強されていたとのことであった)の助言で英語で作成したが、手書きの筆記体であった。注6 当時はコクヨの横書き原稿用紙がまだたくさん売れていたと思う。卒論も私の世代はワープロを使用する人と手書きの人が両方いた。学習院大学文学部の英米文学科には卒論用の所定の原稿用紙があったが、文学専攻の友人は手書きだった。日本語日本文学科(入学前は国文学科だった)に至っては手書きが必修であった。漢字テストの側面が含まれているという噂だったが、原稿はワープロで執筆し、提出は手書きで清書するという不思議な状況であった。
そう記すと、私も卒論は手書きだったと思われるかもしれないが、さすがに英語学だったのでワープロである。また、私は大学で「情報機器の操作」などの授業を一切取らないで卒業したのだが、実はワープロの操作には慣れていた。それは小学生高学年の時に父が何を思ったのかワープロをプレゼントしてくれたからであった。記憶が正しければキヤノンのキヤノワードミニα1という機種で、結構大きな本体だったと思う。注7
卒論の頃は東芝ルポを使用していたが、この機種のシリーズは修論執筆(1990年代後半)、高校教員の時代(1990年代後半〜2000年代前半)まで長いこと、お世話になった。私の所感だが、高校現場では国語科と社会科の先生方が先にワープロが一般化して(シャープの書院を使われている方が多かったように思う)、英語科や数学科の先生方の導入が少し遅れていたように思われる。その理由は、私見でしかないが、英語科は英文タイプライターの存在がワープロに先んじてあったことが逆にワープロ導入を遅らせたのではないか、また、数学科は分数や数学記号を表記するのに煩雑さがあり、それなら手書きの方がテスト作成も早いという意識があったのではないかと思う。
かく言う私もワープロで何も不自由を感じなかったので、その次の文書編集作成機器たるパソコンの導入は実に遅かった(大学3年生の時に既にWindows 95が発売されていた)。高校教員時代の小テストやプリントは全て手書きで作成していた。そのことを保善高校の同僚たちに「のむらのスーパーハンドライティング」と呼ばれていた。注8(定期テストはさすがにワープロで作成していたが、模範解答や得点配分を丁寧な字の筆記体で手書きで作成した際、注9 城北高校の同僚教員が驚いていたことを覚えている。)「研究をいろいろやっている野村さんがパソコンを持っていないのは良くない」と何度も心配して見かねた保善高校の非常勤の同僚たちが結集し、今は日本から撤退したGateway社のパソコンを(どれぐらいの容量が良いか、DVDも見たいかとか言われるままに)カスタマイズして注文してくれた。本体が届いた後日の休日に、当時の所沢の自宅に来てくれて、段ボールを開けて、複数の教員たちが次々とパソコンを手際よく組み立てていく姿には圧倒された。今の学生にはわからないことだと思うが、彼らのような人が集まって作業してくれてもセットアップに半日は掛かったのである。新婚の家内が御礼に手作りの餃子と混ぜご飯で彼らをもてなしてくれた。「野村さんは感謝しないとダメだよ」と言われた。
しかし、同僚がせっかくパソコンを設置してくれたのに、それでも私はしばらくはワープロとパソコンの両方を併用していた。例えば、『英語語法文法研究』の第6号や第7号に最初に投稿した時はまだ東芝ルポで原稿を作成していた(野村1999、2000;現在は開拓社から販売されている)。創刊号(1994年)の投稿規定 (5-8) には以下のように記されている。今の投稿規定にはない文言である。
(1) | (5) | 論文はパソコンもしくはワープロ専用機で、A4用紙にプリントアウトしたものを5部(コピー可)とフロッピーを提出すること。 | ||
(6) | フロッピーのラベルには論文の題名、氏名、使用したパソコンとワープロソフト名、またはワープロ専用機の機種名を銘記すること。 | |||
(7) | フロッピーに保存するファイルは、テキストファイルに変換したものが望ましい。 | |||
(8) | ワープロ専用機は、書院(シャープ)、文豪(日本電気)、オアシス(富士通)、ルポ(東芝)、キヤノワード(キヤノン)のいずれかに限る。その他の機種でも、テキストファイルに変換して提出できる場合は可とする。 |
この頃は互換性のためにDOS/V変換とかテキストファイルとかいうことがしばしば言われていた。またパソコン本体でもワープロ文書のフロッピーファイルをパソコン文書に変換するコンバータ(変換ソフト)も活躍していた。余談ながら、当時のパソコンは横書きの人はワードソフトを、縦書きの人は一太郎のソフトを使う文化もあったと思う。
下記は以前、ワープロとパソコンと違いについて記した文章なのだが、学生や院生など若い方に読んで欲しいと思う。
(2) | それにしても、当時のワープロ(筆者は東芝のルポを使用していた)とWORDなどの今のパソコンでは今昔の感がある。1画面で開けるのはまあ8ページがいいところ、しかも、2DDフロッピーディスク(もう今の学生はUSBメモリーは見たことがあっても、3.5インチフロッピーディスクなんかは見たことがない人も多いと思う)の保存も小分けにして保存せねばならず、しかも半分の4ページで保存しておかないと作業ができなかった。なぜかと言うと、文書合成をした結果も8ページに収まらないといけなかったからである。(私は2000年近くまでワープロ専用機で生活していてそれほど不自由を感じなかったが、文書ファイルを複数開いて作業できることはパソコンの明らかな優位点だとは思った。)印刷も一仕事で、インクリボンが高いことと印刷のきれいさから、感熱紙(FAX用紙を思い浮かべて欲しい)というのを購入してきて、遅いスピードで印刷し、それをまたコンビニに行ってコピーしていた。なお、当時、学習院の英米文学科は手書きの卒論もまだ見受けられたが、日本語日本文学科(旧国文学科)は全員、手書きの卒論が課せられていた。漢字テストを兼ねているということだったが大変な作業だったと思う。(野村 2020より) |
その私ももうワープロでは生活はしていけないなと思ったのは、コンビニエンスストアの商品棚から感熱紙、フロッピーデスクが撤去されるようになった時のことであった。注10 その後はもっぱらパソコンを使用せざるを得なくなって今日に至っている。
それからおよそ20年の月日が流れ、現在の2020年代の学生たちはハンドアウトを作る、レポート、卒論を書くなど、参考文献の文字化が実に楽になった。文字情報があるPDFがネット上にたくさんころがっていることはもちろんのことなのだが、それがない場合であっても、一つはスキャナーの精度が格段に上がったこと(昔は文字化けや間違った文字の修正に一苦労であった)、また、スマホから写した写真からも直接、容易に文字化できるようになったことは人生の驚きである。グーテンベルク(Johannes Gutenberg, c1398-1468)やカクストン(William Caxton, c1422-c1491)が現代の技術を見たら一体どう思うことだろう。もう一つは音声入力機能が挙げられる。一般の方からすると、翻訳機能の発達の方が驚きだろうが、私からすると、その前段階の音声の連続体を機械がきちんと分節化して、単語に分けることが可能になったことの方が驚きである。注11
戻って、我々より上の世代はみんな手書き原稿から書籍を作っていたのだから驚かざるを得ない。いつか『英語青年』で手書きから文書作成編集機器の発達により英詩が昔の時代よりはるかに長くなったという記事を読んだ。さもありなんと納得するのだが、しかし、手書きでも『源氏物語』の昔から長編があることも事実で、例えば、大修館書店の「英語学大系」全15巻などみんな大著だが、あれをどうやって手書きで書いていたのかなと思う。そして、発音記号やら樹形図やら古英語のルーン文字やら英語学の独特の記号や文字を組版する編集者も気の遠くなるような作業だったことだろうと想像する。「ゲラが出来してからの赤字校正は最小限に」は研究者なら必ず目にしたことがあるであろうが、昔は本当に大変な作業であった。今から20年ぐらい前に研究社の津田正『英語青年』編集長(1962-、現在、北烏山編集室)と会食した際、昔はゲラの1行の文字をもうこれ以上増やせないような時に、1字増やすお願いをしたら職人さんに「バカヤロー!」と怒鳴られたが、文字と文字の間を少しずつ削って1字を入れてくれたという趣旨のことを話されていた。現代に生きる我々は文書作成編集機器が発達して、文字化が容易になったことを感謝すべきである。
最後に英語学大系の話をしたので、今井 (1989) のエピソードをして閉じたい。要約して言うと、今井邦彦先生は私が生まれる前に英語学大系第2巻の『音韻論II』を書かれた訳だが、注12編者の太田朗先生(1917-2015)から何度か草稿を読もうと試みましたが、書籍が出来上がってから拝読しますと言われた、太田先生は弟子筋には厳しい方だと漏れ聞いていたので、自分が弟子だったら草稿を突き返されて清書を命じられていたことだろうということであった。今井 (1989) は今井先生がご自身の悪筆のことを記されているエッセイなのだが、年賀状等を拝読すると達筆の部類に属する気がする(外池滋生先生(1947-)も同意見だった)。しかし、昔の編集者は本人しか読めない、それどころか、本人が読めない文字も解読して文字起こしをすることも大事な能力の一つだったことは疑いがない。
(注1)若い生成文法研究者の方への注だが、Xバー理論(X-bar Theory)(Chomsky 1970, Jackendoff 1977) のバーをなぜプライムで書くかというと、元々はx̄のようにXの上にバー(横棒)で表記していたのだが、英文タイプライターでそれをする(=行を少し戻して線を引く)のは大変手間の掛かることなので(特にダブルバーなど)、X′ で代用したのが起源である。よって、プライムが意味することはバーであるので、今井邦彦先生(1934-)などは授業でもXプライムではなくXバーと呼んでおられた。
なお、現在はあらゆる句が範疇横断的にダブルバーまで投射する(=つまりXダブルバーがXPに相当する)ものとして統一されているが、当初はVなどの投射が3つあるいは4つもあり得るのかという論争があった。
(注2)高見健一先生(1952-2022)は自慢をされない方だったが、初めて(一度だけ)習った大学院の授業で「ぼくは英語を打つのはものすごく早いんです」と言われていた。「よっぽど早いんだな、なるほどあの論文量が納得行く」と思った印象が残っている。
(注3)私は3年間、全てのクラスで学級代表をやったのだが(しかし、生徒会長はやりたくないと言って立候補を強く固辞した)、当時、1組の担任は学年主任だった(中1担任の大竹伸一先生は中2からソウル日本人学校に派遣され、1年だけしか我々を受け持たれなかったが、立派な教員であった)。あれから何十年経ってふと思うのだが、私が毎年、1組に配属されていたことは(確かめるべくもないが)偶然ではない気もする。当時(昭和60年代)の札幌市の中学校は荒れていたが(校長先生の小林暁先生(美術)という方も立派な校長だったが、私が通っていた中学校の立て直しのために呼ばれていたのではないかと想像する)、その記憶もあり、自分は中学校の教員をやろうと思ったことはない(大学教員にならなかったら高校教員になっていたと思う)。それを考えると、時代は当然違う訳だが、中学教員を目指す学生は立派だと思う。
毎年、文教大学文学部では教育実習直前対策講座で卒業生の先生をお招きして実習の心構えや教員の生活等を話して頂いているのだが、持っているコマ数や校務の多さに驚く。英語はICT教育も日進月歩であるが、中高の先生には頭が下がる思いがある。
(注4)ちなみに、国公立大学では今でも上質紙ではなく中質紙が使われていると思う。
(注5)学部の指導教授だった岸田緑渓先生(1946-2023)は経済学部の英語の授業で、「君、この段落は試験に出ると思うかね?」といきなり学生に尋ねて、「わかりません」と答えたら、「出ないね。どうしてかわかるかね? 段落がページを跨ぐだろう。そうしたらコピーを2ページしてくっつけないといけないから、面倒だから出さないんだよ」という冗談を言われていた。
(注6)余談だが、私の教育実習の研究授業(1995年)には実に多くの先生方に参観して頂いた。札幌北高の他教科の先生方や実習生仲間はもちろんのこと、高3担任だった上野茂樹先生(当時、札幌予備学院講師)や代ゼミ札幌校日本史講師の狩野剛(かのつよし)先生など、外部の先生方も複数お見えで大変だった。狩野先生には「あんた、ワープロ、得意だから教案もワープロで書くと思ったけど、手書きで意外だったわ」と言われた(北海道の実家にはワープロは持ち帰っていなかった)。狩野先生は世代がかなり上の先生で(札幌北高の日本史教員や各地の校長先生を経た後、代ゼミの日本史教員になられたんだと思う)、我々がコピー、印刷機と呼ぶものをゼロックス、リソグラフと呼ばれていた。
上野先生はハワイ大学東西センター(West East Center)に留学経験もある、英語が実によくできる先生だったが、「野村は日本史の先生の方が合っているんじゃないかと心配していたが、今日の研究授業を見て、英語の先生としても立派にやって行けるとわかって安心した」と言われた。どちらも今は故人となってしまったが、恩師で年賀状を出す人も毎年、減っていくことを感じる今日この頃である。
(注7)比較言語学・ゲルマン語学がご専門の下宮忠雄先生(1935-)は90歳近い現在に至るまで、実に多くの著作がおありの方だが(開拓社からは下宮 (1999) を出されている)、いつぞや画面に2、3行しか映らない「小さなワープロ」でぼくはたくさんの本を書いたと言われていたことが思い出される。
(注8)ちなみに、長谷川欣佑先生(1935-2023)も毎回、ハンドアウトを手書きの両面コピーで作られる先生だった。樹形図も例文も筆記体の手書きだったが、見やすいプリントだった。『文I』「第I部:総論」の原稿も手書きで書かれたと言っておられた。
(注9)余談だが、残念ながら2016年に第50回を以て廃止されてしまった、英語学の優れた業績に贈られる市河賞について、受賞者は賞状と市河三喜(1886-1970)の東京帝国大学の卒業論文のファクシミリ版が贈られていた。私も見たことがあるが、全ページ、几帳面な筆記体で書かれており、驚く。
(注10)同時期のことだったと思うが、澤田治美先生(1946-)が「わしは通信販売でワープロやインクリボンを買い占めて何とかしとるぞ」と言われていた。その澤田先生も連絡をするのは数年に一度のことだが、いつの頃からか電子メールもワードソフトも使われるようになっておられた。
(注11)1994年の米国イクイノックス・フィルムズが制作し、1998年にNHKでも放送された有益なテレビ番組『ことばの不思議』の中でもWhy were you weary?という音声の連続から単語の切れ目を認識するのは容易ではないという趣旨の場面が出てくる。
(注12)筧・今井 (1971) のことだが、筧のパートはアメリカ構造主義の音素論を、今井のパートは生成音韻論を紹介している。学部生の時にSPE (Chomsky and Halle (1968)) の解説をしている筧・今井 (1971) や外池 (1985) に何度かチャレンジしようとしたが、私は文字になっていても難しくて理解できなかった。生成音韻論や最適性理論を体系的に学ぶことがないまま今日に至っていることを恥ずかしく思うが、Art is long, life is short.(羅 Ars longa, vita brevis.)、「少年易老學難成、一寸光陰不可輕」(少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず)だとつくづく思う。でも怠け者の私はだめである。
参考文献
Chomsky, Noam (1970) “Remarks on Nominalization.” In Roderick A. Jacobs and Peter S. Rosenbaum (eds.) Readings in English Transformational Grammar, 184-221. Waltham, MA.: Ginn and Company. Also in Chomsky (1972), 11-61.
Chomsky, Noam (1972) Studies on Semantics in Generative Grammar. The Hague: Mouton. 安井 稔訳 (1976)『生成文法の意味論研究』東京:研究社.
Chomsky, Noam and Morris Halle (1968) The Sound Pattern of English. New York: Harper and Row.
長谷川欣佑・河西良治・梶田幸栄・長谷川宏・今西典子 (2000)『文(I)』(現代の英文法4)東京:研究社.
今井邦彦 (1992)「文字と私」『学習院大学言語共同研究所紀要』第15号、28-29.
Ichikawa, Sanki (1909) “A Monograph on the Historical Development of the Functions of ‘For’”(「Forノ歴史的發達ニ就キテ」)卒業論文、東京帝国大学.
Jackendoff, Ray (1977) X-bar Syntax: A Study of Phrase Structure. Cambridge, MA.: MIT Press.
筧 寿雄・今井邦彦 (1971)『音韻論2』(英語学大系第2巻)東京:大修館書店.
野村忠央 (1999)「命令的接続法節に現れるshouldについて」 『英語語法文法研究』第6号、215-229.
野村忠央 (2000)「命令的接続法節におけるnotとhave・beとの位置関係について」『英語語法文法研究』第7号、151-165.
野村忠央 (2020)「「卒論提出日」と「そば」と「私」」「Researchmap研究ブログ」2020年3月14日
https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/401653/c2cce4ecc1f1122b71381dcf4fe0bb6c?frame_id=864359
下宮忠雄 (1999)『歴史比較言語学入門』(開拓社叢書7)東京:開拓社.
外池滋生 (1985)「音韻論」今井邦彦編『英語変形文法』137-173. 東京:大修館書店.
もう四半世紀以上前の話になるが、神田外語大から東大助教授に異動されたばかりの渡辺明先生(1964-)が数年間だけTEC(東京言語研究所の理論言語学講座)の「生成文法特論II(上級)」を担当されたことがあった。筆者は渡辺先生のTECの授業にも出席していたのだが、最初の年(1998年)のトピックは数量詞、疑問詞のスコープ(作用域)の話であった。May (1977) のreviewから始まって、ミニマリスト・プログラム(極小主義)の数量詞分析まで有益な講義だったが、仕事帰りでよく居眠りしながら出席していた筆者は恥ずかしながら1年経っても数量詞分析がきちんと身に付かなかった。「調子が良い日じゃないと解釈が取れない」とか「『2人の男子学生が3人の女子学生がデートした』で、デートした人数は多い方がうれしいんじゃないか」みたいなどうでも良いことばかり記憶に残っている。
そんな感じなので、今号は数量詞の最先端の分析ではなくて、筆者が抱く、数量詞の作用域の基礎についての素朴な疑問の話である。以下がイントロダクションの授業で出てくる有名な例である。
(1) | Everyone loves someone. | |||
a. | みんなが好きな人が誰か一人いる(集合読み(collective reading))注1 | |||
b. | みんなそれぞれ自分の好きな人がいる(配分読み、バラバラ読み (distributive reading)、個別読み (individual reading)) |
(2) | Someone loves everyone. | |||
a. | 誰か一人の人間が周りの全員を愛している(集合読み) | |||
b. | みんなそれぞれ自分の好きな人がいる(配分読み)(=(1b) と同じ解釈) |
(1a, b), (2a) はすぐに納得ができるが、(2b) の解釈があることが我々日本人には不思議な気がする。しかし、先行研究を総合すると、日本語より英語の方が解釈が容易にできるのだと思う。これらの複数の解釈がMay (1977) の数量詞繰り上げ(Quantifier Raising)、後の極小主義でのLF移動の仮定の元になっている訳だが、「(2b) の解釈は本当にデフォルトで存在するのかな?」と思う。すなわち、英語語法文法研究者として言うと、Williams (1988) の、(2b) の解釈を有するのはSomeone loves éveryone.のように強勢を置いている時である、という主張が正しいと考える。しかし、英語母語話者の数量詞研究者は無標の強勢、イントネーションでも両方の解釈があると主張するのではないかと思うのだが(いつぞやデ・シェン先生(Brent de Chene, 1948-)にも確認したことがある)、そういう人たちは何度も解釈をやっているうちにもはや強勢を置いていることすら忘れ、無意識になってしまったのではないかと思うのである。
そして、ここで重要な分かれ道だと思うのだが、「強勢(stress)を置くことはsyntaxを変える」と考えるのかどうかということである。筆者は強勢はsyntaxを変えると思うが、Mori (1995) は長谷川欣佑先生(1935-2023)と今井邦彦先生(1934-)の異なる2つの興味深い立場を紹介している。
(3) | In addition, Mr. Kinsuke Hasegawa (1994, TEC lecture), who claims the existence of the autonomy of syntax and proposes structural meanings, and who disagrees with the existence of LF, argues that the claim that (3) [=Someone loves everyone] is ambiguous is wrong, and that structurally higher quantifier has wide scope, referring to Williams’ argument that everyone needs to be assigned heavy stress to have wide scope. (Mori 1995: 236)注2 |
(4) | However, Professor Kunihiko Imai (1994, classroom lecture) tells us that (3)[=Someone loves everyone] is ambiguous, and points out many generative syntacticians’ wrong idea of stress. He tells us that if the sentence has another reading by stressing, it is ambiguous and that stress is used for disambiguation. (ibid.: 238)注3 |
(4) は要するに、強勢を置いて別の解釈が可能な場合、元の文にそもそも2通りの読みが可能だったのであって、強勢を置くことによって、曖昧性が解消されたのだという立場である。この問題は言語理論を構築する上で今後も考えていくべき重要な問題であろう。
最後に、日本語の数量詞の作用域の話をして閉じたい。(1-2) に相当する日本語は (5-6) である。注4 (5a, b), (6a, b) の解釈は (1a, b), (2a, b) と同じである。
(5) | 誰もが誰かを愛している。 | |||
a. | みんなが好きな人が誰か一人いる(集合読み) | |||
b. | みんなそれぞれ自分の好きな人がいる(配分読み) |
(6) | 誰かが誰もを愛している。 | |||
a. | 誰か一人の人間が周りの全員を愛している(集合読み) | |||
b. | みんなそれぞれ自分の好きな人がいる(配分読み)(=(5b) と同じ解釈) |
ここでKuno and Takami (2002) を含め、何人かの研究者は (6b) の解釈が可能だと主張しているのだが、読者諸賢は取れるだろうか。久野淦萓検�1933-)と高見健一先生(1952-2022)はご両かたがその解釈が取れるということなんだろうが、筆者は何度読んでもダメである。注5 Kuno and Takamiのエキスパートシステムだと、(7) に示すように、3点:2点という投票点だから曖昧性が出るという予測になる。(しかし、筆者は (6b) の解釈が難しいのではなく、出ない。通説でも一応、そう考えられているはずである。)
(7) | 誰かが | 誰もを |
基準値注6 1点 | 基準値 1点 | |
主語の数量詞 1点 | 普遍数量詞 1点 | |
左端の数量詞 1点 | ||
計3点 | 計2点 |
(Kuno and Takami 2002: 220参照)注7
なお、(6) にかき混ぜ(scrambling)の操作を加え、(8) のように「誰もを」文頭に持っていったら確かに (6b) の解釈が取れると初めて学んだ時はなるほどと思った。
(8) | 誰もを誰かが愛している |
これを最初に主張したのはKuroda (1971) だと思うが、黒田成幸先生(1934-2009)や久野先生の数々の直観は後の時代から学説史的に振り返ってみても凄いなと思う。
(注1)(1a) の具体例として歌手の美空ひばり(1937-1989)、俳優の石原裕次郎(1934-1987)、(2a) の具体例としてマザー・テレサ(Mother Teres, 1910-1997)が思い浮かぶ筆者はやはり昭和の人間なんだと思う。
(注2)長谷川 (2003) は (3) と同様の見解を述べている。
(i) | 対比強勢を持つwh句は、GAoA[=一般A-over-A原則、通説の局所性移動の条件とほぼ同義]から除外される。 (長谷川 2003: 255) |
Lasnik and Saito (1992) が挙げる有名な例である (iia, b) について、(iia) はGAoAの予測通りだが、2つのwhoをペアにして答える場合には (iib) も可能であるというLasnik and Saitoの主張に対して、長谷川は (iib) が可能な場合は (iii) の ように2つのwhoに対照強勢(contrastive stress)があることに注目すべきだ(すなわち、GAoAの原則から外れる)と述べている。
(ii) | a. | Who wonders who bought what? | ||
b. | Who wonders what who bought? (Lasnik and Saito 1992: 118) |
(iii) | WHO wonders what WHO bought?(対照強勢を大文字で表しておく、それ以外の単語のwonders, what, boughtは2次強勢) |
(注3)(4) の立場はChomsky (2004) の“BEA(=Beyond Explanatory Adequacy)”の記述に近いのかもしれない。当時のChomskyはEPP素性に加え、連続循環移動を駆動するOCC(=occurrence)素性というものを仮定していた。
(i) | Optimally, OCC should be available only when necessary: that is, when it is contributed to an outcome and SEM that is not otherwise expressive, the basic Fox-Reinhart intuition about optionality. (Chomsky 2004: 10) |
(注4)「誰も」が不自然だと感じる人は「みんな」や「どの人」で置き換えても良いと思われる。なお、Mori (1995) は論文を執筆する際、言語学者の長嶋善郎先生(1940-2011)に日本語の数量詞についての見解を伺ったところ、「誰もを」という日本語は不自然で、「誰をも」と言うんじゃないですかと言われたということである。
(注5)なお、斎藤衛先生(1953-)は明晰な発表をされる方だが、数量詞の研究発表をされる時はたくさんの例文が出てきて、「〜は良いですね、〜はダメですね、〜はちょっと悪いですね」などと流れるようにコメントされて発表が進んでいく。しかし、筆者は解釈で立ち止まっているうちに、議論に置いていかれるということが何度もあった。
余談だが、生成文法を習い始めて、Lasnik and Saito (1992) のMove αやHoji (1985) のlarge-scale pied-pipingを学んだ時、サイトーやホージという外国人研究者がいるのかと思っていた。大学院生になって初めて斎藤衛先生や傍士元先生(1952-)という日本人研究者なのだと知った。
開拓社の「最新英語学・言語学シリーズ」のパンフレットを見ると、第1巻が斎藤先生の『生成統語論の成果と課題』が予定されている。刊行を期待したいと思う。
(注6)なお、Kuno (1991) の時にはBaseline(基準点)という項目はなかったことは注意すべきだと思われる。
(注7)高見先生の追悼文 (野村 2023) でも記したことだが、Aoun and Li (1993, 2000) を丁寧に読み解いて数量詞作用域の生成文法的説明の問題点を事細かに指摘しているKuno and Takami (2002) は労作だと思う。Chomsky (1986: 43) は「下接の条件」(subjacency condition)の説明で人間言語にあるのは計数器(counter)ではなく隣接性(adjacency)という概念なのだという趣旨のことを述べているが、仮に久野・高見の点数制を用いた機能論的説明(例:視点、再帰代名詞、数量詞の作用域、被害受身などの分析)に同意しても、しなくても、彼らの研究は「反例の重要性」を示していると思われる(外池 (2002) の「反例の推奨」の言及、野村 (2013: 81、注32) なども参照のこと)。
参考文献
Aoun, Joseph and Yen-hui Audrey Li (1993) Syntax of Scope. Cambridge, MA.: MIT Press.
Aoun, Joseph and Yen-hui Audrey Li (2000) “Scope, Structure, and Expert System: A Reply to Kuno et al.” Language 76: 133-155.
Chomsky, Noam (1986) Barriers. Cambridge, MA.: MIT Press. 外池滋生・大石正幸監訳 (1994)『障壁理論』東京:研究社.
Chomsky, Noam (2004) “Beyond Explanatory Adequacy.” In Adriana Belletti (ed.), Structures and Beyond: The Cartography of Syntactic Structures 3, 104-131. Oxford: Oxford University Press.
長谷川欣佑 (2003)『生成文法の方法―英語統語論のしくみ』東京:研究社.
Hoji, Hajime (1985) Logical Form Constraints and Configurational Structures in Japanese. Doctoral dissertation, University of Washington.
Kuno, Susumu (1991) “Remarks on Quantifier Scope.” In Heizo Nakajima (ed.) Current English Linguistics in Japan, 261-287. Berlin: Mouton de Gruyter.
Kuno, Susumu and Ken-ichi Takami (2002) Quantifier Scope. Tokyo: Kurosio.
Kuroda, Sige-Yuki (1969) “Remarks on the Notion of Subject with Reference to Words like Also, Even or Only, Part II. Annual Bulletin 4, 127-152. Logopedics and Phoniatrics Institute, University of Tokyo. Also in Papers in Japanese Linguistics 11: 157-202.
Lasnik, Howard and Mamoru Saito (1992) Move α: Conditions on Its Application and Output. Cambridge, MA.: MIT Press.
May, Robert (1977) The Grammar of Quantification. Doctoral dissertation, MIT.
Mori, Miyuki (1995) “On Psych-Verbs.” MA Thesis, Gakushuin University.
野村忠央 (2013)「日本の英語学界―現状、課題、未来」『日本英語英文学』23号、55-85.
野村忠央 (2023)【追悼文】「高見先生との四半世紀の思い出」『学習院大学英文学会誌 高見健一教授 荒木純子教授 追悼号 2022』18-21.
https://researchmap.jp/read0060497/misc/41818539に再録
斎藤 衛(準備中)『生成統語論の成果と課題』(最新英語学・言語学シリーズ1)東京:開拓社.
外池滋生(2003)「係助詞に関するいくつかの推測—文中詞と文末詞のあいだで—」KLS 23.関西言語学会.
Williams, Edwin (1988) “Is LF Distinct from S-Structure? A Reply to May.” Linguistic Inquiry 16: 247-289.
昨年2023年10月、慫慂で英語語法文法学会第31回大会シンポジウム「現代英語に見る歴史の痕跡」を開催させて頂いた。この数年、忙しさの故に日本英語学会、日本英文学会、近代英語協会等の慫慂を(論文も発表も)断り続けてきたのだが、今回はお断りするには忍びない義理があり、お引き受け申し上げた。シンポの場合、身内の仲間を講師にすることも散見されると思うが、今回は筆者がシンポ内容に相応しいベテランの講師の先生方にきちんと打診して、招聘した。すなわち、村上まどか先生(実践女子大学)、家口美智子先生(金沢大学)、保坂道雄先生(日本大学、招待講師)のお三方である。我々4人、公私共に様々な事情や多忙を抱えており、準備までの2年間、様々な困難の中、大会運営委員会や事務局の先生方にもご足労、ご迷惑をお掛けしたけれども(改めてお詫びと感謝を申し上げる)、久し振りの対面開催の中、タイムテーブルも守って、盛会裡のうちにシンポを終えることができたことは幸いであった。
それで本題なのだが、フロアからの質疑応答の中で顧問の八木克正先生(1944-)注1 から村上講師に重要なご質問があった。「ご発表の中で命令文や仮定法現在節について『定形性が高い、低い』と言われていたが、そもそも『定形性』をどういう定義で使われているのか」という趣旨のご質問をされたと思う。その回答については当日の村上先生のご回答に譲るとして、注2 筆者もその後の質疑応答で補足のコメントをしたのだが、今号はその補足に関連して「不定詞標識toと法助動詞shouldの類似性」について記したい。
筆者は野村 (2001、2002)、Nomura (2006) を含め、「不定詞標識toは法助動詞句Mod(al)Pの主要部に基底生成する、すなわち不定詞標識toの統語範疇は法助動詞である」と主張してきた。注3 通説ではTP(時制句)の主要部にtoが基底再生するとされるが(Chomsky (1981: 18-19) はInfl(屈折要素)にtoが含まれると示唆している)、平易な言い方をすると、1970年代の句構造規則で言うところの、
(1) | a. | S→NP Aux VP | ||
b. | Aux→Tns (Aux) |
において、toは (1b) のTns(時制)ではなく、Aux(助動詞)の方だということを意味する(仮定法現在の統語範疇も同様である)。それを踏まえた上で、英語の法助動詞にはwill/would, shall/should, can/could, may/might, must, dare, need, ought toのおおよそ12種類があるが、その中でもshouldがtoに一番近いと考えられるというのが今号のコラムの主張である。
まず第1に、両者の分布やVP削除の類似性の例を挙げる際、しばしばshouldが使用されることは注目すべきである((2-3) 参照)。また、疑問不定詞節、不定詞関係節(=不定詞の形容詞的用法)の定形節への書き換えも原則、shouldが用いられる((4-5) 参照)。注4
(2) | a. | It’s vital [that John should show an interest] | ||
b. | It’s vital [for John to show an interest] |
(3) | a. | I don’t want to go to the dentist’s, but I know I should |
||
b. | I don’t want to go to the dentist’s, but I just don’t want to |
|||
c. | * | I don’t want to go to the dentist’s, but I just don’t want |
((2-3): Radford 20162: 84)
(4) | a. | John doesn’t know {what to do/where to go/which train to take}. | ||
b. | John doesn’t know {what he should do/where he should go/which train he should take}. |
(5) | a. | I have a lot of homework [to do]. | ||
b. | I have a lot of homework [(which) I should do]. |
第2に、筆者のシンポジウムのテーマとも関係するが(野村 2023b参照)、「文法化」(grammaticalization)の要因の一つとして「漂白化」(bleaching)が挙げられる。この点、shouldはmust, ought to, have to, needなどよりも「弱い義務」を表し(例えば、You should see that movie!などは「義務」というより「あの映画、観た方がいいよ」という「助言」である)、以下の諸例に至ってはshouldは完全に文法化しており、「義務・当為」の意味は全くない(上述 (2a) も同様)。
(6) | a. | I demand that John should leave immediately.(仮定法代用、イギリス英語) | ||
b. | Should you have any questions, please free to ask.(未来の可能性が低い仮定) |
(7) | Let us emphasize, lest he should forget, that this is a very important thing. | (今は文語調でやや古風) | (綿貫・ピーターセン 2006: 246) |
第3に、shouldは普通に考えれば定形文(finite clause)であるが、wh句の抜き出しの振る舞いからは不定詞節つまり非定形節(non-finite clause)に近い。例えば、前号のコラムで紹介した長谷川理論では、下記 (8a, b) の文法性の差異は時制文条件(Tensed-S Condition: TSC)が重要に働く(伝統的な「島の制約」理論においてはどちらも「複合名詞句制約」(CNPC)違反で非文を予測することに注意)。注5
(8) | a. | * | Which girl did John acknowledge [NP the fact [S' that he had visited ]]? | |
b. | Which race did John see [NP a chance [S' for us to win ]]? |
(長谷川 2003: 183, 186参照)
しかし、2001年11月の日本英語学会第19回大会で ”Phase and Cyclicity”(司会:池内正幸、講師:高橋大厚、斎藤衛、長谷川欣佑、討論者:外池滋生)という興味深いシンポジウムがあったのだが、注6 下記、Hasegawa (2001) の (9a, b) の「wh島の制約」の文法性の差異に対して((9a) は複雑度1でギリギリOK、(8b) は複雑度2でout)、Tonoike (2001) は (10) が定形文にもかかわらず文法的だというデータを挙げていた。
(9) | a. | ? | Which books did he want to know where to put | ||
b. | * | Which books did he want to know where Mary put | (Hasegawa 2001: 136) |
(10) | Which books did he want to know where Mary should put? | (Tonoike 2001: 3) |
後日の外池滋生先生(1947-)の話によると、長谷川欣佑先生(1935-2023)は質疑応答で「チョムスキーも定形文で抜き出しがOKな文を挙げているのだが、そういう英文にはいつもshouldがあることが気になっていた」という趣旨のことを言われていたとのことだった。注7 筆者の考えでは「shouldは不定詞のtoに近い」ということである((10) のshouldは通例、3人称・単数・直説法・現在形の定形とみなされるし、主語は主格が現れていることに注意)。
結論としては、Nomura (2006) の注で以下の図を挙げたのだが、shouldもその中に入るはずだということである。
(11) | “More” Tensed | |||||
定形文 | 主格 | 屈折する | 時制文 | |||
were仮定法 | 主格 | 屈折アリ | 時制文 | |||
仮定法現在 | 主格 | 屈折ナシ | 時制文注8 | |||
バルカン諸語仮定法 | PRO | 屈折アリ | 非時制文 | |||
ポルトガル語不定詞 | 主格 | 屈折アリ | 非時制文 | |||
不定詞 | PRO、対格 | 屈折ナシ | 非時制文 | |||
“Less” Tensed |
(Nomura (2006: 234, fn. 5) の図を日本語にしたもの)
最後に、日本語にもshouldに相当する、あるいは近いものがあるかと言うと、筆者は古文の助動詞「む」、現代日本語の助動詞「う」が近いと考えるが((12) 参照)、それについてはまた稿を改めたい。注9
(12) | a. | 明日、君が行こうが行くまいが、結果に変わりはないよ。 | ||
b. | 総理大臣ともあろう人が… | |||
c. | 御霊の安らかならんことを | |||
d. | 思はむ子を法師になしたらむこそ、心苦しけれ(『枕草子』七段) | |||
(いとしいと思う子があったとして、その子をもし出家させたなら、それは痛々しいことだ) |
(注1)八木先生は英語語法文法研究、フレイズオロジー(phraseology)研究で著名な方だが、英語参考書に残っている、現代英語ではもはや使われていない英語についての喚起(八木 2007など)、及び関連して斎藤秀三郎(1866-1929)についての一連の研究(八木 2016)も英語学徒が知っておくべき大事な研究だと思う。八木 (2023) も併せて参照のこと。
(注2)筆者の定形性(finiteness)の解説としては野村 (2020) を参照のこと。
(注3)法助動詞句の措定についてはEgashira (2016)、外池 (2021) のMPなども参照のこと。また、Radford (20162) はAuxP(助動詞句)を措定しているが、Nomura (2006) のModalPと実質的に同じ効果を生むことを法助動詞と否定の作用域の相互作用から議論している。
(注4)数少ない例外は以下である。(ia) のhow to doは (ib) に示す通り、canで書き換えられる。また、(iia) は主語が先行詞の不定詞関係節だが、法的解釈の有無ということがしばしば問題になる(Saizen 2022など参照)。しかし、筆者は (iia) のto landは確かに (iib) のthat landedに書き換え可能だが、本来の書き換えはthat was to land(月面着陸が予期されていた)の如きものであって(過去時から見た非現実(irrealis))、それが示す実際の事実を鑑みるとthat landedにパラフレイズできるというのが正しい捉え方だと思う。つまり、法的解釈の定義にもよるのだが、(ia) も (iia) も法的解釈を有するということである。
(i) | a. | I don’t know how to get there? | ||
b. | I don’t know how I can get there? | |||
(ii) | a. | Who was the first human in the world [to land on the moon]? | ||
b. | Who was the first human in the world [that landed on the moon]? |
(注5)TSCについては、野村 (2023a) の下記の記述も参照のこと。
(i) | 私見ではMP[=ミニマリスト・プログラム]においても時制文条件の何らかの定式化が必要で、例えば、定形節・非定形節の位相形成の有無に還元する可能性などが考えられる。 | |
(野村 2023a: 148) |
(注6)この時のシンポ内容は後年『英語青年』2002年4月号(148巻5号:266-287)において「フェイズと極小主義理論」(執筆者:池内正幸、高橋大厚、斎藤衛、外池滋生、長谷川欣佑)という特集が組まれた。
(注7)このシンポに参加したのに「伝聞」になっている理由は、仮定法研究者の筆者がシンポと同時刻開催の村上 (2001) の発表を見たかったがため、シンポの最後を中座したからである。
通説ではV-to-I移動の有無は屈折語尾が形態論的に豊富(rich)であることに還元されるとしばしば主張されるが(Chomsky (1995) の移動を駆動する「強い、弱い」(strong, weak)という概念もこれに関連している)、村上はヨーロッパ諸言語を観察すると、V移動が起こるかどうかの決め手は法(Mood)の形態の有無だと主張している。
(注8)仮定法現在節と不定詞節の類似性は数量詞の作用域の解釈にも見られる。例えば、(i) の仮定法現在節は定形文とされるが、(ia) と (ib) の両方の解釈が可能である。
(i) | We require that our students read only Aspects. | |||
a. | 我々は学生たちがAspects以外の本を読まないことを求める(require>only) | |||
b. | 我々が学生たちに読むことを求めるのはAspectsだけである(only>require) | |||
(外池 2019: 135参照、cf. Kayne 1998) |
しかし、そのような節を超えた複文内で両方の数量詞解釈が許されるのは (iia, b) に示される通り、不定詞節の振る舞いである。つまり、この点、(i) の仮定法現在節は定形節ではなく不定詞節(非定形節)に近いということである。
(ii) | I will force you to marry no one. | |||
a. | お前に誰とも結婚させないことを強要する(force>no one) | |||
b. | お前を無理やり結婚させるつもりの相手などいない(no one>force) | |||
(Klima 1964: 285、日本語訳は外池 2019: 135のもの) |
(注9)本稿とは異なる視点に基づくが、尾上 (2001) はウ・ヨウ、動詞終止形の用法、古代日本語のムの叙法論的性格を詳細に論じている。
参考文献
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自分は中堅世代の研究者、教員だと思っているが、昨年は夫婦共に喪中で、よって、年賀状も来なかったのだが、受け取った喪中葉書の数もこれまでで一番多かった。自分もそういう年齢になったんだと実感した一年であった。親族だけでなく恩師の訃報も続いており、2022年4月に高見健一先生(1952-2022)が、2023年1月に岸田緑渓先生(1945-2023)が、2023年3月に長谷川欣佑先生(1935-2023)が亡くなられた。
高見先生の追悼文は『学習院英文学会誌』に記したので(野村 2023a参照)、今号は3月31日で亡くなられて一年となる元東京大学名誉教授・元獨協大学名誉教授長谷川欣佑先生の(追悼文というよりは)思い出を少し記したい。なお、長谷川先生の追悼文はTEC(東京言語研究所)のホームページに大津由紀雄先生(1948-)と池上嘉彦先生(1934-)が書かれている。また、昨年11月の日本英語学会評議員会で、渡辺明先生(1964-)がEnglish LinguisticsにObituaryを書かれると報告があった。
さておき、私は東大や獨協大の出身ではないので先生の直弟子ではないが、私も家内(野村美由紀)も大きな影響を受けた。障壁理論を今井邦彦先生(1934-)に、最新の生成文法理論を外池滋生先生(1947-)に、そして伝統的な生成文法理論に立脚しつつ、独自の理論を展開されていた長谷川先生に、それぞれ習ったことにより、生成文法理論を客観化、相対化して見ることができたと思う。注1 「長谷川理論」の集大成は長谷川 (2003、2014)、最も重要なキーワードは「一般A-over-A原則」と「複雑度の理論」だと思うが、詳細を記す余裕はないので、それらについては野村 (2023b) を参照されたい。注2 長谷川理論に対する簡潔な評価としては中島 (1990) が参考になる。注3
(1) | 『英語青年』に掲載された「Generalized A-over-A principle」(1974[a]) と「変形適用における複雑度」(1974[b]) は、その後チョムスキーが提案した下接条件やバリア理論と相通じるところがあり、この時期に英文で発表していたならば国際的な評価を得られたものと惜しまれる。(中島 1990: 61) |
ここで先生の要約力も感じる、TECの授業で伺った名言をいくつか(カッコ内は野村の補足)。
(2) | a. | Emonds (1970) の「構造保持制約」は要するにroot文(根文=主節)ではいろいろな操作をやってもいいが、従属節ではいろいろいじってはいけないということ。 | ||
b. | Pollock (1989) は着地点としてのAgr節点を認めるべきだという副詞の議論を複雑にしているが、その根拠となる英語とフランス語の副詞のデータはごくわずかなものである。それらもまた別の説明が可能である(長谷川 (2003:第9章) 参照)。 | |||
c. | Chomsky (1986) のBarriersは定義の連続で議論も複雑で読みづらいが、言いたいことはシンプル。「補部からの抜き出しはOKだが、付加部からの抜き出しはoutである」ことを定式化しようとしたものである。 | |||
d. | Barriersは驚くべき内部矛盾を抱えた理論である。一旦、「VP付加」(VP-Adjunction)なんて操作を認めてしまったら、barrier(障壁)なんか1個もなくなっちゃって、みんなOKになってしまう(長谷川 1986参照)。 | |||
e. | 心理動詞の分析とか(cf. Pesetsky 1994)、何でもSyntaxでやろうとするのは誤り。意味論との分業を考えるべき。意味論、音韻論との適切な分業が重要(長谷川 (2003:第II部特論) のallege類動詞の分析、「that痕跡効果」の分析など参照)。 | |||
f. | McCawley (1999) のThe Syntactic Phenomenaはぼくと分析は違うけど、統語テストの章など、一度は読むべき。グルメ。 | |||
g. | feature movement(素性移動=非顕在的移動)なんてない。「島の制約」はovert movement(顕在的移動)だけに掛かるものである(長谷川 (2014:第4章) など参照)。 | |||
h. | MP(ミニマリスト・プログラム)は言語固有の原理をなくそうとしてしまっている。何でも理論が進むと先鋭的になってしまう。『ゴドーを待ちながら』(1952) は結局、ゴドーが出てこない。『4分33秒』(1952) はピアノを弾かない。 |
先生は以前、ご自身の理論のことを「新標準理論」と呼ばれていたが(長谷川 1983参照)、チョムスキーの通説を批判した「痕跡」、「統率範疇」、「節点としてのAgr(一致要素)」などの概念はその後、廃止された(「素性移動」も一度はチョムスキーも廃止したと思う)。また、先生は長年、長距離wh移動は各駅停車の連続循環的移動(successive cyclic movement)ではなく、一挙に移動する急行の移動だと主張されてきたが(長谷川 (2014:第4章) など参照)、最近のChomsky (2023) の「ボックス理論」(Box Theory)も連続循環的移動を除去しようとしている(その理論の可否は慎重に見定めるべきである)。
最後に、私は1999年に獨協大学の大学院を受験したのが、その時の思い出を記した、公刊されていないエッセイの一部を再録して今号のコラムを閉じたい。元はワープロ文書だったのだが、昨年4月に長谷川宏先生にお送りする際に古いファイルから探し出した。文中の神尾先生とは「情報の縄張り理論」で著名な神尾昭雄先生(1942-2002)のことである。私は母校の青学大学院に進んだので獨協大学院には進学しなかったが、野村 (2023b) はこの時の最後の遠い恩返しの気持ちで執筆したものであった。(長谷川 (2014) のタイトル通り)経験事実に基づいた言語理論を大切にした長谷川欣佑先生のご冥福をお祈りしたい。
(前略)そして2月下旬に青山の再度の入試を終え、合格発表を見れないまま、3月頭の獨協を受験しなければならなかった。願書に同封された入試資料を見ると、青山同様、英語学専攻の毎年の合格者はほぼ2〜3人でこちらもきつい感じだった。
試験当日、筆記試験が全部終了した後、面接があった。長谷川先生はもうその時のことを覚えておられないと思うが、こちらとしてはコメントの的確さに正直びっくりした。大学ノートにびっしりと書かれてあって、「それを私にください!」と言いたかった。
最初の年の青山の入試では、上にも記した通り、「形式上の」注意がとても多かった(自分が悪い)。もちろん、他大受験の際はそういうミスは修正して提出したけれども、「内容を大幅に変えるのはフェアじゃない」という馬鹿正直な気持ちがあって、極端なreviseはしなかった。
しかし、長谷川先生のコメントは内容に関することばかりで、褒めて下さるにしても、問題点を指摘して下さるにしても、非常にcrucialなことばかりだった。「どうして他人の論文の内容をここまで理解できるのだろう?」と思ったものだ。(もっとも、あのチョムスキーの難解な論文を40年以上前から今日までずっと独力で理解し、反論し続けてきた東大の長谷川欣佑なんだから、考えてみれば当たり前のことなんだけど…。)
「えーと、君の論文について議論したいことはたくさんあるんだけど、全体として、非常にいい論文でした。日本は主流派の意見にすぐ流される人が多いんだけど、君は自分の意見をしっかり持って書いているところが良い。それから、最近の生成の人は伝統文法やイギリス学派のこと、勉強しない人が多いんだけど、君はよくやっているようでその点も立派だと思います。」
良く言われたことばかり書いて嫌味に聞こえては嫌なので、指摘された問題点で覚えているものを以下に記す。
「君はどうしてもto not 〜をダメにしたいみたいだけど、OKな文はいくらでもある。例えば、He expected me to not go there. もう一度。He expected me to not go there.」注4
「君の素性のふり方がいくつかおかしい。例えば…。」
「君はSubjunctiveには時制があると言うんだけれど、やっぱりそう思いますか、野村君? 君はちゃんと根拠を挙げているんだけど、弱いと思う。確かに君が言う通り、Subjunctiveは複合名詞句制約に従う、Tensed S Conditionに従う、主語にNominativeが現れる、それでもどうですか、SubjunctiveにTenseはないとは思いませんか?注5 そう、SubjunctiveはFiniteではあると思う。その点からすると、例えばね、Tensed S Condition(時制文条件)は名前の付け方の問題でね、確かにFinite S Condition(定形文条件)って呼んだらいいかもしれない。注6」
実はこの後、メガネを掛けた、白髪まじりの先生がコメントされた。筆者は「この方が神尾先生では?」ととっさに思ったが、やはり後からそうであることがわかった。
「私もざっと拝見しました。これからあなたがどこに行かれることになるかはわかりませんが、どこに行かれることになっても、研究者として十分きちんとやっていけると思います。英語もいくつか変てこりんなところがありましたが、非常にしっかりした英語でした。」
そうすると他のある先生が、「どうしてこれ青山でBなんでしょうねえ? しかも長谷川先生、青山はAの上に更にAAがあるんですよ」と言われた。すると、長谷川先生が、「えっ、これBなの? そんなことはない、これは東大でも立派にAだよ」と言って下さった。上記の神尾先生のコメントと長谷川先生のこのフォローは非常に名誉な気持ちだった。博士課程浪人の1年間は辛かったが、この時は、「たとえ落ちても、これは本望だ。獨協を受験して良かった」と心から思った。文頭にも記したが、この時の気持ちは今も忘れていない。
そして面接の最後に長谷川先生が、「それでね、これは聞きづらいことなんだけど、やっぱり聞いておかなきゃいけないのだが、受かったら獨協に来る意志はありますか?」と聞いていらっしゃった。筆者は「うそをつくのは嫌なので(笑いが起きる)正直に申しますと、青山に修士以来の義理やしがらみもありますので、青山に受かったら、青山に行くつもりでおります」と正直に申し上げた。(笑いが起きてよかった。)
知り合いはみんな「ウソをつけばよかったのに」と言った。合格発表は青山より先だったのだが、合格していた。非常に嬉しかった。とにかく、高校受験からずっとあった「受験」が終わったんだ、もう受けなくていいんだ、という気持ちでいっぱいだった。(後略)
(注1)先生は1963年から長年に亙ってTECの「理論言語学講座」の授業を担当されていたが、自分が習ったのは先生の最後の「生成文法特論」(1998年、テキストはCulicover 1997)と最後の「生成文法入門」(1999年)であった。同じく翌年、上智大学名誉教授の梶田優先生(1938-)の最後の「生成文法入門」(2000年)も受講することができたのだが(それ以降は梶田先生は「生成文法特論」しか担当されなくなったと思う)、両先生の最後の「生成文法入門」を学べたことは有益なことであった。
なお、長谷川先生と最後にお目に掛かったのも2007年のTEC(東京言語研究所)「夏期特別講座」であったが、それが最後のTEC担当の授業であったと思う。
(注2)先生のご葬儀(家族葬)後、喪主の専修大学教授長谷川宏先生(1960-)より「野村さんが書いてくださった書評(=野村 (2023b) のこと)がとてもよかったので、誠に勝手ながらプリントアウトしてお棺に入れさせていただきました」というメールを頂戴し、有難いことであった。また、中澤和夫先生(1954-)にも後述、獨協大学大学院受験の思い出をお知らせした際、「何とも胸が詰まる文章です、野村くんの文章は。…就中、野村くんの名著解題を棺に入れられたという件り、これに優る学恩はありや、と思いました」と言って頂いた。
なお、その際、長谷川宏先生にお送り頂いた、(結局、葬儀の席上で読む機会を逸したという)喪主挨拶も感慨深いものがあった。
(注3)その他、長谷川先生の2005年までの経歴、研究業績(の適切な紹介)、業績一覧については今西編集代表 (2005: 447-453) が参考になる。
(注4)先生のto not語順のコメントがその後の野村・Smith (2007)、野村 (2019) 執筆の動機の一つとなった。
(注5)例えば、Chiba (1987) やNomura (2006) は「仮定法現在節には時制がある」と主張している。それに対して、Murakami (1992、及び以降の一連の研究) やChiba (1994) は「仮定法現在節にはAgr(一致要素)はあるがTense(時制)はない」と主張している。
(注6)先生は昔、2ページの『英語青年』の論文で(長谷川 1963)、咀嚼して言うと「英語のPresent Subjunctive(現在仮定法)はTns(Aux) が削除変形された結果、原形が生じている」という主張をなさっていた。Culicover (1971) の命令文、仮定法の博士論文に先んじているのだが、当時の枠組みに基づいた卓見だと思う。
(注7)最後に余談だが、長谷川先生も1999年に恩師の中島文雄先生(1904-1999)の業績紹介、追悼文を書かれている。その中で「自説と違う論文を評価することの重要性」について記しておられるのだが、「言うは易し、行うは難し」の、しかし、研究指導、査読において大切な視点だと思う。
(i) 私事にわたるが、私は学部の卒業論文も修士論文も、先生のおきらいな(と思われた)Saussureの考えや、アメリカ構造主義言語学の手法を取り入れて書いたので、叱られるのではないかと冷や冷やしながら提出したのだが、認めてくださったのでほっとしたのを覚えている。とかく独自の理論をもつ優れた学者は、弟子に自説を押しつける傾向があることは、内外の学界風景を見ても一目瞭然であるが、先生の寛容の精神は先生の真のリベラリズムのおのずからなる発露であると思われる。これは、社会主義国家においてこそ真のリベラリズムが開花するはずであると私などが若い頃に誤解していた「社会主義国家」の非寛容とは全く対照的なものであった。
この寛容の精神は私たちがしっかりと受け継いでいきたいと思う。現に私も大学院生を指導するときには先生を見習って、意識的に自説と違う考えを認めるよう努力している。こうして先生の問題提起とその実践も、先生の寛容の精神も、脈々と弟子たちに受け継がれ、さらには次世代の研究者をも導いてくださるものだと信じている。
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英語の初出単語を学ぶ際、発音、意味、用法をしっかり確認して暗記するのが重要であることは言うまでもない。注1 外池滋生先生(1947-)が昔、「一回、単語の発音を間違えて覚えたまま大御所になってしまうと、誰もそのことを指摘できなくなる。ある有名な先生がsouthernをサウザンと発音していたが誰もサザン [sʌ́ðərn] だとは言えなかった」という趣旨のことを言われていた。注2 私も大学2年生の会話の授業で何か野菜の話になって、カカンバーと発音したら通じず、それはキューカンバー(cucumber [kjúːkʌmbər])だと言われて大爆笑された。注3 恥ずかしい間違いだが、自分の頭の中の誤りの発音が訂正されて良かった。
ということで、今回のテーマは「言語学者の発音」である。すなわち、固有名詞である人名や地名の発音はどの言語でも難しい訳だが、まずは「言語学者の名前をどう発音するか」の話をいくつか。谷美奈子先生(青山学院大学名誉教授)が同僚であったドナルド・スミス先生(Donald L. Smith, 1936-2022)に、変形文法初期の有名な研究者であるパールムッター(David Perlmutter, 1938-)の話題をしたが、誰のことか一向に通じない、「スミス先生が知らないはずがありませんよ」と話しているうちに、スミス先生が「ああ、パールマラのことか!」というやり取りがあったとのことである。(日本人はカタカナの「パールムッター」は「ムッ」を強く読むと思う。それに対し、原語の [pə́ːrlmʌtəːr] は前に強勢がある。)
『意味と形』(1981) で有名なボリンジャー(Dwight Bolinger, 1907-1992)の発音は、中右 (1988: 26) によると「本人はボリンジャーという読みを好みとするが、ボリンガーと読まれることもある」とある一方、八幡 (1976: 59) はボリンジャーの名前(姓)の発音は家族間でも論争の種で、本人はバランジャー [báləndʒə]、息子はボラン(ガ)ア [bɔ́ləŋə]、伯父はボランジャー [bɔ́ləndʒə] と発音するとのことであった(カタカナは野村の表記)。
また、草創期の社会言語学者ラボフ(William Labov, 1927-)も日本では我々は普段、ラボフと呼んでいるが、いつぞや、ラバブが原音に近い、aboveをアバブ [əbʌ́v] と読むのだから、Labovもその発音に [l] を加えたラバブ [ləbʌ́v] と読むのが正しいという、なるほどと思う記述を読んだ覚えがある(井出・重光 (1995: 196) に記された発音記号を見ると、二重母音だが、確かにそれに近い [ləbóʊv] という発音が記されている)。
それから、副詞研究の古典の一つに『グリーンボーム英語副詞の用法』(1983) という書籍があるが、何かの研究発表でそれを引用していた発表者の方に対して、安藤貞雄先生(1927-2017)が質疑応答で開口一番、「あなた、発表中、グリーンボーム(Sidney Greenbaum, 1929-1996)って発音されてたけど、発音はグリーンバウム [gríːnbaʊm] 注4 ですよ!」とかなりきつい調子で言われていた。
最後に、最近の生成文法の進化生物学的研究でしばしば名前が挙がる人にCedric Boeckxという研究者がいる。学会等ではボックス、ベックス、ブックスという発音が聞かれるが、長谷川宏先生(1960-)によると、「本」のブックスの発音が一番近いということだった。(ブックスとボックスは聞こえ方の問題かもしれない。)
さておき、表題の「言語学者の発音」は二つの意味を掛けていて、次に「言語学者がする発音」について。上記、外池先生はwoman [wúmən] をウーマンではなくウォマンとアメリカ人ネイティブスピーカー的に発音される。また、Covert Movement(非顕在的移動=不可視の移動)をカバート [kʌ́vəːrt] ではなくコヴァート [kóuvəːrt] と発音されていた。そして、私が1990年代に院生だった頃、Pollock (1989) 以降、Chomsky (1995: Chapter 3) まで生成文法研究者が猫も杓子も仮定していた重要な統語範疇にAgrPあるいはAGRsP, AGRoPという統語節点があった。Agreement Phrase(一致要素句)の省略だが、ある系統の大学院生たちがアグルピーという発音をしていた。しかし、MITの在外研究からお戻りになった時期の外池先生は複数の大学の大学院生が参加している授業終わりに、「ところで、アグルピーと読んでる人がいるけど、アグラー [ǽgrə] あるいはアガー [ǽgə] と読むのが正しい」と発音記号を板書し、教室を去って行かれた。
今井邦彦先生(1934-)に英語音声学を習ったことがある人はイントネーションの話で必ず以下の (1a, b) の例文と、その表す意味は (2a, b) だという説明を耳にしていると思う。
lovely | |||||
(1) | a. | You have | e yes. |
|
|
b. | l |
|
|||
o | e | ||||
v | |||||
You have | e | ||||
l | es. | ||||
y | y | ||||
(2) | a. | 貴女の目は綺麗だ。 | |||
b. | 貴女は目こそ綺麗なんですがね。(「目はきれいだが、ほかの造作はひどい」という言外の意味が酌み取られる) |
||||
(今井 2007: 141-142参照) |
この例文は昨今のジェンダーの社会状況からすると使いづらい例文となったと思うが、注5 今井先生のポイントを要約すると「下降調は断定、上昇調は判断保留、上昇下降調、下降上昇調はその組み合わせ」(より正確には、下降調は通説では「言い切り」「断定・主張」とされているが、本当は「判断保留の不在」が正しい)ということだった思う。
次に、TEC(東京言語研究所の理論言語学講座)で「生成文法入門」「生成文法特論」を習った先生方の専門用語の発音について。渡辺明先生(1964-)の授業中の発音を聞いて、「ぼくらは普段、Linguistic Inquiryをリングウィスティック・インクワイアリー [inkwáiəri] と読んでいるけど、本場ではリングウィスティック・インクウィリリー(<[ínkwəri])と読むのか」と思った。
また、梶田優先生(1938-)はsyntactic operation(統語演算)をオパレーション [ɔpər éiʃən]、derivation(派生)をデラベーション [dèrəvéiʃən] など、シュワ(schwa)をア [ə] の音で発音されていたことが記憶に残っている。
そして、長谷川欣佑先生(1935-2023)は照応現象(anaphor)(概略、伝統文法で言うところの、再帰代名詞、人称代名詞、了解済みの主語などの代用表現の諸現象)に詳しい方であったが、anaphorをアナファー [ǽnəfər] ではなくアナフォー [ǽnəfɔːr] と発音され、nominative case(主格)をノミナティーブ・ケースと長く読まれていた。(metaphor(隠喩)もメタファー [métəfə] と読む人とメタフォー [métəfɔ̀r] と読む人がいると思う。また、expletive(虚辞=itやthereなどのこと)もエクスプリティブ [éksplətiv] と発音する人とイクスプリーティブ [iksplíːtv] と発音する人がいると思う。)
最後に、2000年代以降のミニマリスト・プログラムの重要な概念として「位相」(phase)がある(Chomsky (2000, 2008) など参照)。注6 私は二重母音のphaseをカタカナで「フェーズ」と記すのは気持ちが悪く、「フェイズ」と記したい感がある。注7 しかし、長母音で記すことは、メーク(make)、フェース(face)、レート(rate)などのように外来語として定着した証拠なのかもしれない。いつぞや、千葉修司先生(1942-)が、「中島君(中島平三先生(1946-)のこと)やぼくはメール(e-mail)が出始めた時からずっとメイルと書いていたが、さすがに今はやめてしまった。しかし、中島君は今でもメイルと書かれている」という趣旨のことを言われて、確かに中島先生はそうだと思った記憶がある。注8
(注1)今の学生は(成人した我が家の子供たちも含め)発音記号を知らない人が多い実感がある。電子辞書やネット上の音声を含め、いろいろな媒体で実際の単語の音声が聞けるから発音記号は不要だという向きもあるであろうが、発音記号と実際の発音から記憶を定着させることが間違いなく有益であると思う。特に英語教職履修者はそうあって欲しい。生徒や学生はhot [hɑt / hɔt], hat [hæt], hut [hʌt] の「ア」の音が違うことを発音記号が異なることで初めて気付く人も少なくないと思う。私は曖昧母音の [ə](schwa)の音は英語音声学を学んで初めて正確に発音できるようになったと思う。
(注2)我々の世代以降の日本人は1970年代後半以降のサザンオールスターズの活躍でsouthernの発音は間違えなくなったのではないだろうか。
(注3)日本人、英語母語話者に限らず、先生には当たり外れがあるが、この「英語 上級 オーラル 英2B」の授業を担当されていたリンダ・ディビズ(Linda Davies)先生という方はカナダ人で弁護士の資格もある方だったが、良い先生だった。それで、同じクラスの女子学生が何か植物の話でハーブの話を出したのだが、友人のぼくらも含めていくらherb [həːrb] という正しい発音をしても通じず、先生に綴りを知らせると、ああ、それはアーブ [əːrb] と発音するんだよ、ということだった。フランス語が公用語でもあるカナダはhourとかhonestのみならず、herbなどでも [h] 音を黙字にするんだなと思った覚えがある。
(注4)今回、初めて調べてなるほどと思ったのだが、その発音記号を含め『英語学人名辞典』(1995) のGreenbaumの項を書かれていたのは安藤先生ご自身だとわかった。
しかし、この二重母音と長母音の話、結構、難しい、すなわち、歴史的、方言的にどちらもあり得ると思う。昔、青学の英語史を聴講していた時、ウィルキンソン先生(Hugh E. Wilkinson, 1926-)がOE(古英語)のhām [hɑːm] (ハーム)、PE(現代英語)のhome [houm] (ホウム)、ドイツ語のHeim [haim] (ハイム)(家)は同じ語源、また、OEのbēam(ベーアム)、PEのbeam [biːm] (ビーム)(梁、けた、光線)、ドイツ語のBaum [baum] (バウム)(木)は同じ語源だと言われていた(この話、Wilkinson (1977: 25) の“Pronunciation and Spelling”の章の解説だったと思う)。ちなみに、Baumkuchen (バームクーヘン)<Baum (木)+Kuchen (ケーキ:英語のcakeと同語源) である。また、故エリザベス女王(Queen Elizabeth II, 1926-2022)はhomeを [həum] (ハウム) と発音されていた。
(i) | He doesn’t lend his books to anybody. |
(ii) | a. | 下降調→彼は誰にも本を貸さない。 | b. | 下降上昇調→彼は本を貸さない訳ではないが、人を選んで貸す。 |
(今井 2007: 142、2019: 133参照) |
(注6)概略、「統語演算の単位」のことで、通説では (i)「命題」を成すか(意味論)、(ii) 音韻的な独立性があるか(音韻論)、(iii) 解釈不可能素性がその先端に付与されるか(統語論)などの観点からCP(補文標識句)とv*P(他動詞の軽動詞句)がそれに相当するとされるが、1970年代の循環節点(cyclic node)とも類似性があり、位相にDP(名詞句)が含まれるかどうか議論が続いている。
(注7)同じ単語(phase)なのだが、昔から外来語として存在する「次のフェーズに入った」とは違う感じがするんだと思う。ガラスとグラス(glass)、ミシンとマシン(machine)、インキとインク(ink)、ストライキとストライク(strike)みたいなものだろうか。
(注8)最後に、混乱していると思われたら嫌なので、書いておいた方がいいだろうか。私は普段、発音記号を簡易表記(broad transcription)(例:[i], [u])で記すが、引用については、原表記に従い、精密表記(narrow transcription)(例:[ɪ], [ʊ])を用いている。確かに、例えば、短母音 [ɪ], [ʊ] と長母音 [iː], [uː] は単なる長さではなく、音質が違うことは事実である。しかし、教育上は(昨今は精密表記が流行りのような気がするのだが)簡易表記の方が中高生や大学生には簡便でわかりやすいと思う。
青学定年最後の年で習う機会がほとんどなかったのだが、牧野勤先生(1930-)はこの問題にお詳しい方であったと記憶している(牧野 (1977) も参照のこと)。
参考文献
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八幡成人 (1981)「Dwight L. Bolinger―思想と業績」『研修』第14号、59-76. 島根県立平田高等学校.
このたびの能登半島地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された方々、そのご家族及び関係のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。みなさまの安全と、一日も早く平穏な日常が戻りますことを心よりお祈り申し上げます。
英語学概論に類する授業を教え始めると、自分の以外の専門分野の授業で頭が混乱することはどの人にも経験あることだと思う。例えば、筆者は三十代の時、音韻論の逆行同化(regressive assimilation)(例:have to [hæv tə] → [hæf tə])注1と進行同化(progressive assimilation)(例:happen [hæpn] → [hæpm])や、形態論の語基、語幹、話根などがこんがらがった。以下は後者についての中島 (20112) のわかりやすい説明である。注2
(1) 語基(base)とよく似た用語に語幹(stem)と語根(root)と呼ばれるものがある。語基は屈折や派生の基になる語のことを指すのに対して、語幹は屈折の基になる形態素のことを、語根は接辞が一切付いていない形態素のことを指す。teachは語根でもあり、teachesなど屈折形およびteacherなど派生語の語基でもある。teacherは(すでに接尾辞が付いているので)語根ではないが、teachersという屈折形の語基であり、語幹でもある。teacherはまた、派生語teacherly(教師らしい)の語基であるが、この場合、屈折形の基になっているわけではないので、語幹とは言わない。(中島 20112: 67-68)
このことを念頭に置いて頂いた上で、生徒や学生、英語の先生を含め、多くの人が「不定詞、to不定詞、原形、更に語幹、語根」を同じものだとみなしているが、本来は別物であるという話である。
一言で言えば、多くの人はこれら全てを裸形(bare form)と同様の意味で用いていると思われる。確かに、現代英語(PE)だけで考えればそれほど障害はないようにも思われる。例えば、下記(3)に示す通り、不定詞(infinitive)は定形(finite form)の反意語たる非定形(non-finite form)の一種である訳だが ((2-4)参照、詳しい議論は野村 (2015, 2019, 2020) 参照)、正確に言えば、たまたま不定詞(だけ)は原形(root form)と同形だということである。
(2) | a. | 非定形:人称、数、時制、法によって動詞の形態が定まらない(形) | b. | 非定形の下位区分:不定詞、動名詞、分詞 | (3) | a. | It is difficult for me to answer the question. | b. | * | It is difficult for him to answers the question.(主語が3人称でも-sが付かない) | (4) | a. | She seems to be an actress. | b. | * | She seems to was an actress when she was young.(不定詞の表す意味が過去時制であってもwasにならない) |
しかし、同じ非定形の動名詞singingや分詞singingが原形singと同じものだとは思わないであろう。つまり、原形sing+動名詞あるいは分詞語尾-ingがsingingと考えるはずである。同じことで、原形=裸形singにゼロの(不定詞)語尾φが付いたものが不定詞sing+φだということである。
ここで古英語 (OE) (450-1100) のsing(にあたる語)の形態を考えると納得頂けるだろうか。
(5) | a. | 不定詞はsingan(本来は名詞性を表す対格語尾) | b. | to不定詞はto singenne(本来、toは「方向を表す前置詞」、-enneは与格語尾) |
すなわち、不定詞にも語尾があったということである。現代英語だけを見ていると、「singanのsingの部分が不定詞なのでは?」と思うかもしれないが、そうではなく、「singanのsingの部分を((1)の用語を使うと)語幹(stem)と呼ぶ」のである。すぐ思い付く疑問は「語幹は語根(root)(原形もroot formの訳であることに注意)と同じものなのか?」ということである。OEの段階を見れば、yesと言って良いと思う。しかし、印欧語のより古い形態を観察するとnoだと言うべきである。PEのbearにあたるサンスクリット語bhṛ-の直説法能動現在単数形を見てみよう。
一般的に動詞の語構造が(7)と考えられることは周知のことである。(6)のmi,si,tiが(7)の屈折語尾であることは問題ないと思うが、その前の語幹の部分がāとaで微妙に異なる。より正確に言うと、その部分が語幹形成語尾、そして、それを抜かした部分が語根だということである。(8)参照。
しかし、現代語では語幹形成語尾と屈折語尾は当然、区別できない。注3 英語はOEの段階でさえも区別できなかった。(6)同様、PEのbearにあたるOE beranの直説法現在単数形を見てみよう。
すなわち、-e,-st,-eþにおいて語幹形成語尾と屈折語尾の区別は難しいということである。注4
まとめると以下のようになる。
(10) | a. | 原形=裸形は何も付かない形 | b. | 不定詞は法助動詞や不定詞標識toに後続する形だが、ゼロ語尾φがある | c. | 現代英語だけを見れば、動詞の語幹=語根と考えて良いが、歴史的に考えると、原形にあたるのは語幹 |
そうすると、原形不定詞(root infinitive)という呼び方はある種、矛盾があることに気付くと思われるが、筆者も研究や教育の場面も含め、極めて普通に使ってしまっている。また、PEだけを見れば、(10a)=(10b)=(10c)と言っても差し支えないであろう。しかし、英語教員や研究者は(10a-c)の本来の意味も併せて知っておいて欲しいというのが本稿の結論である。そうすれば、「命令文(命令法)は原形とは違うのか?」「仮定法現在は原形とは違うのか?」などの疑問を考えるきっかけとなるであろう。注5
(注1)英語は逆行同化の例の方が多いと思われるが、用語としては安藤・澤田 (2001: 51-52) などが用いている予期同化(anticipatory assimilation)という用語の方が日本人にはわかりやすいかもしれない。
(注2)余談だが、中島 (1995) の初版教科書が中島 (20112) に改訂される際、出版社から再校ゲラの段階で本書全体を読み直して気付いた点を連絡して欲しいと言われ、本文も教授用資料も全ページにわたってチェックしたのは大変な作業であった。日本英文学会全国大会に向かう飛行機の中でもゲラ校正をしていた記憶がある。後日、伺ったところ、著者の中島平三先生(1946-)ご自身はその依頼をご存知なかったということであったが、改訂版2刷以降の「はしがき」の謝辞で言及して頂いた。いずれにせよ、本書はコンパクトな、しかし、必要十分な情報は記されている英語学概論の教科書として21世紀も残っていくものと思われる。
なお、初版中島 (1995: 122) の「意味論」の章ではプロトタイプ意味論の説明で鳥のスキーマの解説や、犬のスキーマに属する様々な犬の絵(ダックスフント、グレイハウンド、プードル)があって、筆者はそれを残して欲しいと思ったのだが、改訂版の中島 (20112) の章ではそれらがなくなってしまって残念に思った。
(注3)屈折語尾の内部でさえも区別できない。例えば、現代ドイツ語の
(i) | Wenn | ich | ein | Vogel | wäre, | würde | ich | zu | dir | fliegen. | ||
If | I | a | bird | were | would | I | to | you | fly | |||
'If I were a bird, I would fly to you.' |
(注4)敢えて言えば、-e,-eþのeの部分が語幹形成語尾の名残、-st,-eþのst,þの部分が人称語尾に近いとは言える。同じゲルマン語派のゴート語(4世紀)などを参照のこと。なお、ber-eやbir-stに見られるように母音変化も重要な点なのだが (語幹形成母音)、話が複雑になるので割愛する。
(注5)筆者自身も詳述する余裕はないが、「仮定法現在(命令的仮定法)の動詞の前には不可視の仮定法法助動詞Mφが存在しているので、後続する動詞は文字通り原形」だと考えている (Nomura (2005)、野村 (2015) など参照のこと)。渡辺 (1989) や村上 (2023) も「仮定法原形」という用語を用いている。つまり、理論をどう捉えるかということによる。
また、認知言語学、認知意味論の類像性(iconicity)の概念に基づけば、「原形の裸のラベルが持つ命令的な気持ち」を命令文や仮定法現在にも持たせることと思う。筆者はそのような英語教育を否定するものではない。しかし、その場合であっても、英語教員は本来の用語の意味も知っておいた方が良いということである。例えば、下記『英語教育』のQuestion Boxコーナーの記述は本来の意味に基づいて回答されているものである。
(i) Q.(前略)suggestの後にくる主語+動詞の文では、その動詞は原形であるはずですが、そうはなっていません。(後略)
参考文献
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野村忠央 (2020)「定形性」渋谷他編 (2020) 104-105.
渋谷和郎・野村忠央・女鹿喜治・土居峻編 (2020)『今さら聞けない英語学・英語教育学・英米文学』東京:DTP出版.
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生成文法を牽引してきたチョムスキー(Noam Chomsky, 1928-)とラズニック(Howard Lasnik, 1945)は理論や経験事実を修正する上において良い関係だと思うという話である。ちなみに、筆者は海外の研究者と交流があるタイプの研究者ではないので、二人の学者の人柄などは存じ上げない。
さておき、『統語論キーターム事典』(2016) のラズニックの項を見ると、以下のように書いてある。
(1) Lasnik, Howard(ハワード・ラズニック)(1945年生まれ)
アメリカ人言語学者ハワード・ラズニック(Howard Lasnik)は1967年に数学と英語の学士号をカーネギー工科大学で取得し、1969年に英語修士号(MA in English)をハーバード大学で取得した。また、1972年に博士論文Analysis of English Negation(英語の否定の分析)で博士号をMITで取得した。1972年から2002年まで30年間、コネチカット大学で教鞭を執り、2002年からは特別教授としてメリーランド大学で教鞭を執っている。
ラズニックは著作が多く、拡大標準理論から統率・束縛理論やミニマリスト・プログラム(Minimalist Program)まで、変形生成文法の発展と理論化において重要な役割を果たした。彼は1977年の‘Filters and control’(フィルターと制御)のような重要な論文をノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)と共同執筆している。
(Luraghi and Parodi 2008: 245, 外池監訳 2016: 310)
1960年代後半から1970年代半ばまで、生成文法に御家騒動があったのは有名な話である。すなわち、「解釈意味論」(interpretive semantics)と「生成意味論」(generative semantics)の言語学戦争である(今井 (2001) など参照)。ミニマリスト・プログラム(Minimalist Program, MP)を含めた現在の生成文法理論が解釈意味論の子孫であることは言うまでもないが、日本でも当時、意外に生成意味論に期待する声は大きかったのではないかと想像する(筆者は1972年生まれなので実感はない)。当時の有名な入門書である今井邦彦 (1975) 『変形文法のはなし』も実は生成意味論に基づいて書かれている。注1 また、外池滋生先生(1947-)も筆者が院生の頃、当時、日本国内で解釈意味論を支持していたのは長谷川欣佑先生(1935-2023)と斎藤興雄先生(1940-)ぐらいだったのではないかと言われていた。
しかし、その外池先生は中央線の電車の車内でChomsky and Lasnik (1977) “Filters and Control”を読んでいた時、「これで生成文法は何かが変わると思った」という趣旨のことを言われていた。80年代以降から現在まで続く「原理と媒介変数のアプローチ」の萌芽である。注2 そして、次に続く80年代のGB理論のまとめと90年代以降のMPの萌芽がChomsky and Lasnik (1993) であることは言うを俟たない。
また、チョムスキーは長年、ECM(例外的格付与)を主張し、Postal (1974) の「目的語位置への繰り上げ」(Raising-to-Object, RO)の考えを認めなかったが、注3 その事実の重要性を認め始めたのはLasnik and Saito (1991) の議論が契機だったと思う。
そして、長谷川欣佑先生の授業でそのような話をしていて話題になったのはthere構文の話であった。MP初期にチョムスキーが論じたthere構文の重要な例文として以下がある。
「3人の男たちが(昨夜、)名前も名乗らずにやって来た」ぐらいの意味であろうが、重要な点はthree menの3人称複数男性というφ素性がTの位置まで繰り上がるから、identifyingの前にあるPROをコントロールできて、themselvesの先行詞になれるということである。
しかし、この例文を当時、スミス先生(Donald L. Smith, 1936-2022)注4 に見せた時、“Is Chomsky really a native speaker of English?”と言われたことが今も忘れられない。それで、スミス先生の話と軌を一にする話だと思うのだが、Lasnik (1999) は以下の(3)の例を挙げ、通常の他動詞の目的語の場合はそのようなコントロールはできないことを示した ((2)のarriveは非対格動詞と呼ばれ、主語は基底位置では目的語位置にあるとされる)。
(3) *I met three men (last night) without identifying themselves. (Lasnik 1999: 187)
ラズニックは暗に(2)の問題点を指摘していたと思われる。
最後に、付加詞の遅延併合(late insertion)の根拠とされる以下の有名な対比について、
(4) a. Which claim that John was asleep was he willing to discuss?
b. Which claim that John made was he willing to discuss?
Chomsky and Lasnik (1993) では(4a)はJohn≠heと判断していたのだが、Lasnik (2003) は(4a)が非同一指示の解釈しか持たないという自分たちの判断は誤りであったと総括した(野村 (2023) 参照のこと)。
筆者のイメージではラズニック先生はチョムスキー先生の高弟の中堅世代の学者というイメージがあるのだが、今回、このコラムを書いていて、日本で言えば喜寿のお祝いを過ぎていることに気付いた。Chomsky (2000) のMIが載っているラズニックの記念論文集Step by Stepから四半世紀近く経っているのだから当たり前と言えば当たり前のことなのだが。
(注1)高見健一先生(1952-2022)も今井 (1975) は「親文・子文」(=主節・従属節)のような面白さが随所にあった、とてもわかりやすい変形文法の教科書だったと言われていた。
なお、今井 (1975: iv) のはしがきには「「解釈意味論」について詳しく知りたい人のための日本語で書かれた本としては、長谷川欣佑『生成文法の諸相』(ELEC、近刊) をお勧めする」とあるのだが、実際にはその書籍は刊行されていないので、Hasegawa (1972)、村木・斎藤 (1978)、長谷川 (2003) などを参照のこと。
(注2)福井 (2000: 784) は「生成意味論にかなりコミットしていたかのように見えた」夭折の天才言語学者原田信一(1947-1978)が「もうあと二、三年、原田さんが生きていてくれたら、生成文法理論における「抜本的な考え直し」(すなわち原理・パラメータモデル)の誕生を経験することができたであろう」と記している。
(注3)下記参照のこと。
(注4)スミス先生は最初期に「日英語の鏡像関係」を論じた学者である (Smith (1978) 参照)。筆者が1990年代にお会いした頃は意味論や社会言語学により興味をお持ちだったが、何度も先生の鋭い言語直観に助けられた(例えば、野村 (2019) など参照)。
長谷川(欣佑先生の)理論について議論していた時も、下記の(i)と(ii)の逆行束縛の例は長谷川理論にとって重要な例文なのだが((ia)は時制文条件(TSC)が発動してアウト)、
(i) | a. | * | These pictures of himself show [that Snoopy is an excellent pilot]. | b. | These pictures of himself show [Snoopy to be an excellent pilot]. |
スミス先生は最初、「これはどっちも悪いんじゃないか…」としばらく考えた後、「ああ、そうか、himより良いですね!」と言われたことをよく覚えている((iia, b)参照)。また、showよりproveの方が良いこと((ib)と(iib)の対比参照)、この写真をジョンが自分自身で撮っていないと(iib)は言えないことなど、興味深いコメントをいくつもして下さったことが思い出される。
(ii) | a. | * | This picture of him proves [that John is a football player]. | b. | This picture of himself proves [John to be a football player]. |
参考文献
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野村忠央 (2023)「目的語位置への繰り上げと例外的格付与」「長谷川欣佑 (2014)『言語理論の経験的基盤』開拓社」遊佐典昭・小泉政利・野村忠央・増冨和浩編『言語理論・言語獲得理論から見たキータームと名著解題』104-105, 193-195. 東京:開拓社.
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先日(4月)、全国版ニュース番組で、お笑い芸人のとにかく明るい安村氏(1982-)がイギリスの人気オーディション番組Britain's Got Talentに出場し、会場を大いに沸かせたというエンタメニュースを目にした。筆者は以前、北海道教育大学旭川校に勤めていたが、安村さんは旭川実業高校野球部の卒業生で、以前、氷点下の旭川冬まつりの会場にパンツ1枚で旭川観光大使のたすきをつけてステージに上がっていたことが思い出される。芸人としていろいろ苦労されているであろうが、同じ道産子、日本人として世界での活躍を素直にうれしく思った次第である。
さておき、彼のネタは日本でも流行っていたので説明するまでもないであろうが、体型を活かした「安心して下さい、履いていますよ」である。このネタを今回の英国オーディション番組では全編英語でやり通している(生徒にも大いに学ぶことがあると思われる)。
(1) 安村:I'm wearing pants. But I can pose naked.
司会者:No, don't. / No, thank you.
安村:No. 1; football player naked pose. Come on!
(裸のように見えるサッカー選手のポーズを取る)Don't worry. I'm wearing!
司会者:Pants!(会場笑い)
安村:OK? OK, No. 2; horse racer naked pose. Come on!
(裸のように見える騎手のポーズを取る)Don't worry. I'm wearing!
司会者:Pants!(会場笑い)I love it. / He's a genius.
以下、同じことをNo. 3; James Bond naked pose(裸のように見える007のポーズ)、Finally, Spice Girls Wannabe naked pose(スパイス・ガールズの代表曲『ワナビー』)でも繰り広げる。
ここで注目したいのは、彼がDon't worry. I'm wearing!と言った後、いずれも少し間を置いて、司会者の女性(採点者)たちがPants!と叫ぶことにより、一層会場が盛り上がっていることである。
日本語であれば、一度、パンツが出てきている(あるいは見えている)状況で「安心して下さい、履いていますよ」は全く問題がない。しかし、英語は他動詞を目的語なしに用いることは原則、文法(統語論)が許さないのである。
生徒はしばしば「前に出てきたものは省略できる」と勘違いしているが、少なくとも英語の省略においてそれは必要十分条件ではない。確かに以下の(2B)が示すように、日本語では主語の「私は」や目的語の「それ(=映画)を」が共に省略可能である。
(2) A: 昨日の映画、見た?
B: うん、見た、見た。
しかし、英語では主語のIや目的語のitが旧情報(既知)であっても、省略はできない((3)参照)。
(3) A: Did you watch the movie last night?
B: *Yes, φ watched φ.
英語としては目的語をitとして言語化しYes, I watched it.とするか、動詞句全体を削除して、支えの時制助動詞を残したYes, I did.としなければならない。生徒には日英語の大きな違いとしてこのことを意識させるべきである。つまり、今回のネタで言えば、「I'm wearingの後に何もない文は英語母語話者にとって気持ち悪い、目的語のパンツを補いたくなる」というのがポイントである。(日記文で主語Iが省略されること、I read (books).やHe eats (meals).などの潜在目的語は英語教育上はまずは特別な事例と考えた方がよい。)
安村さんが「履いてますよ」を直訳して単にI'm wearing!としたのか、計算の上で目的語を言っていなかったのかはわからない。しかし、ベタではあるが、紅茶、サッカー、競馬、007、スパイスガールズなどイギリス人の心を掴む計算をしてネタに臨んでいた。
今回のエピソードは大学の英語学概論等で、必要不可欠な「項」(=主語、目的語、補語、義務的な前置詞句)と随意的な「付加部」(=修飾語)の差異の認識でも有用だが、その他、中高生にとっても、「今、履いていること」は進行形のbe wearingを用いること、単純現在形のwearは習慣を表し、1回の動作の「履く」はput onを用いることなどが喚起できる。
また、サッカー、パンツ(下着)はアメリカ英語ではsoccer, underwearを用い、イギリス英語ではfootball, pantsを用いることも同様である。筆者は高校生の頃、ケンブリッジ大学のアメリカ人学生がイギリス人学生に向かって、閉まってしまった大学の門によじ登って何とか中に入れたが、その際、ズボン(pants)が破れてしまったというエピソードを伝えると、But how could you tear your pants(パンツ)without tearing your trousers(ズボン)?と聞き返された長文を今でも覚えている。