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コラム



 

 「翻訳」という心的活動が存在することに疑いの余地はない。身の回りには、翻訳の具体的事例が溢れているからである。が、翻訳の本質はどこにあるのかとか、翻訳はどこまで可能なのか、というようなことになると、はっきりしないことが多い。例えば、一般に、日本語はすべて英語に翻訳できると考えられているかもしれないが、そういうことは、全く、ない。次の (1) からみてゆくことにしよう。

 

(1)
a.
茶の湯はわびの世界である
b.
最近、彼の芸は枯れてきた
  c.
荷物をもった老人が田舎道をとぼとぼと歩いていた
d.
山のほうから「ホーホケキョ」という声がきこえてきた
e.
春の小川がさらさら流れていた
f.
春風がそよそよ吹いていた
g.
彼はにたにた笑っていた

 

 これらの場合、問題とされる日本語表現にぴったり対応する英語の表現は存在しない。したがって、一対一の対応関係にある英語で置き換えるということはできない。つまり、翻訳は不可能である、ということになる。どうするか。

 翻訳は不可能でも、説明することはできる。できるとはいっても、100パーセント可能というわけにはゆかない。当然、歩どまりということがある。「こういうことであろうか」という見当がつけばよいというくらいのところであろう。その上、説明には丸ごと一冊の本を必要とするという場合も、当然、でてくる。

 もっと困るのは、(1d)、(1g) のような場合である。(1d) の「ホーホケキョ」は、いうまでもなく、日本語のオノマトペである。が、対応する英語のオノマトペは、ない。英語のオノマトペは、日本語のオノマトペとは異なり、「いま、ここで、場面ごとに、臨時に作る」ことを許さないのである。(1e) の「さらさら」には擬声語としての用法もあるとする説もあるが、主たる用法は、擬態語としての用法であろう。そうすると、(1c) の「とぼとぼ」以下、「さらさら」、「そよそよ」、「にたにた」など、みんな擬態語ということになる。

 擬態語の世界は広い。広大無辺である。それが、英語という言語からは全く抜け落ちているのである。これは、実に、驚くべきことである。

 擬態語の表す意味をかみくだいて説明することが全く不可能であるとはいわないが、「にたにた」、「にやにや」、「カラカラ」、「ゲラゲラ」、「カンラカラカラ」、「オホホ」、「イヒヒ」、「ウフフ」、「エヘヘ」等々の擬態語をうまく使い分けられるよう外国人に教えるということは、そもそも、可能であろうか。

 これとは逆に、英語にはなかった擬態語が日本語訳の中に現れるということは珍しくない。次の (2) をみることにしよう。

 

(2)
a.
He treaded up the hill wearily.(彼はトボトボと丘を登っていった)
b.
She burst into tears.(彼女はわっと泣きだした)

 

この場合、「とぼとぼ」や「わっと」にそのまま対応する英語は原文にはない。これらの機能語的表現を訳文の中で用いるのは、誤りであろうか。もっというなら、誤訳であるといえるであろうか。そういうことはない。が、ここで、改めて、正しい翻訳とは何か、ということが、問題となってくる。

 まず、心得ていなければならないのは、英文の中の名詞や動詞を、対応する日本語の名詞や動詞に置き換え、それらをつなぎ合わせるだけで正しい日本語の訳文が得られることは、通例、ない、ということである。交差点などでよく用いられるWatch out! は「(危ない)気をつけろ!」に相当する。これを直訳といっていけないことはないが、むしろ、同じ場面で発せられる英語と日本語とが、短い形で対応し、完結している例であると考えるべきであろう。同じように考えてよい表現に、あいさつのことばがある。次の (3) をみることにしよう。

 

(3)
a.
Good morning.
a'.
おはようございます
  b.
Merry Christmas!
b'.
クリスマスおめでとう
c.
Happy New Year!
c'.
あけましておめでとうございます

 

これらの場合、誤訳という批判が入り込むすきまはないようにみえる。ほぼ同じ場面で交わされる英語と日本語とが、組み合わさっているからである。

 ところが、少し細かにみてゆくと、日本語のあいさつことばと英語のあいさつことばとの間には、かなり大きなずれのあることが分かってくる。概していえば、日本語のあいさつことばは、即物的で、場面依存的であるのに対し、英語のあいさつことばは、その基盤に祈りの要素がある。時制という観点からみれば、日本語のあいさつは過去志向であり、英語のあいさつは未来志向である。

 「さようなら」は「さようならば、これにて失礼します」から生じたことばであり、英語のGoodbyeは「神があなたとともにありますように」(God be with you) から生じた祈りのことばである。Merry Christmas! は「楽しいクリスマスがきてくれますように」、Happy New Year! は「楽しい新年がきてくれますように」という祈りのことばである。これに対し、「明けまして、おめでとうございます」は、「旧年中はなにやかやいろいろありましたが、とにかく無事に過ぎ、新しい年が明けました。おめでとうございます」というほどの意である。

 こういう意味の違いが具体的な形となって現れるのは、配達日の違いであろう。クリスマスカードは12月25日以前に配達されなければならないのに対し、日本の年賀状は元日以後に配達されなければならない。

 こういう違いがあるにもかかわらず、日英両言語が大きな支障もなく通用しているのは、社会的慣用という角度からすると、ほぼ「同じ場面の共有」という大原則が守られているからであると思われる。

 今度は次の (4) をみることにしよう。

 

(4)
a.
He has a weakness for liquor.(彼は酒となると目がない)
  b.
This match is too wet to strike.(このマッチは湿っていて、すれない)

 

この場合、(4a) をただ「彼は酒に弱い」としただけでは、さかずき一杯でも真っ赤になる、という意味にとられるおそれがあり、むしろ、誤訳とされるであろう。マッチに火をつけようとしているとき、日本語では「マッチをする」とはいうが、「マッチを打つ」とはいわない。したがって、いくらstrikeが「打つ」という意味であるからといって、「マッチを打つ」というわけにはゆかない。

 以上述べてきた例には、重要な共通点が一つある。「同じ場面の共有」ということである。翻訳と名のつくほどの対応関係はすべてこの大原則に立脚していなければならない、ということである。「そんな面倒なことをいわれては、とても、間尺に合わない。例えばdestructionは「破壊」と訳せば、それで必要にして十分。あと、なんの不足があるのか」と反問されるかもしれない。

 こういう反論に三分の利があることは認めてもよい。が、それによって、上の大原則が揺らぐことは、全く、ない。むしろ、上の大原則に固執することによって、「destruction=破壊」という単純な対応観の不備が次々と明らかになってゆくであろう。

 まず、日本語の「破壊」は、destructionと比べると、現場との結びつき方が弱く、それだけ抽象度が高い、といえるであろう。destructionのほうが現場と、より強く、より直接的に、結びついている、ということである。すなわち、destructionのほうはdestroyとの派生関係が一目瞭然である。destructionはdestroyという英語あっての派生形である。基底形であるdestroyは動詞であるから、すぐ問題になるのは、主語としてふさわしいのはどんな名詞か、目的語としてふさわしいのはどんな名詞か、手段として用いられているのは何か、等々のことである。こういうことを介して、destructionは現実世界と結びつく明確な筋道をもっている。動詞destroyがもっているこれらの特性は、大部分、派生形destructionに受け継がれているのである。the destruction of the city by the enemy(敵によるその都市の破壊)という名詞化形が、このことをよく示している。

 他方、日本語の「破壊」には、それを現実世界に結びつける役割をしてくれる本来的な動詞がない。たしかに、「破壊する」という動詞があるが、これは、英語の場合とは異なり、「破壊」という名詞からサ行変格活用によって派生的に得られたものである。手元の国語辞書をみても、見出し語として「破壊」はあるが、「破壊する」はないのである。

 いずれにせよ、文の中身を、直接、具体世界に結びつける働きをしているのは、述語動詞である。述語動詞が決まると、場所と時間が決まってくる。さらに、誰が、何を、どういう道具を用いて、どうしたか、ということが結びついてくる。

 これと相似の現象は片仮名書きの外来語の場合にもみられる。実際はこっちのほうが、よりやっかいである。「コンプライアンス」や「インフォームド・コンセント」などがよい例である。これらの片仮名名詞には、それらを支えている動詞の、影も形もみえない。だから、これらの片仮名による外来語ほど始末に困るものはないのである。これらの外来語を必要とし、造りだすに至った当のご本人たちも、一般の人々同様、本当は始末に困ったはずである。「コンプライアンス」も「インフォームド・コンセント」も、ただ、ふわりと、空中に浮いているだけで、現実世界のどことも結びつくきっかけがないからである。

 現実世界との結びつきを手に入れるためには、これらの外来語を一度英語に戻してみる必要がある。すると、complianceとinformed consentが得られる。すると、いずれの場合も、根底にある動詞の姿が透けて見えてくる。comply、inform、consentである。

 まず、complyが与えられると、主語には人間がくる。complyは「・・・に従う、・・・を守る」の意だから、目的語には「社内規則、法令」などがくる。なんのことはない、「コンプライアンス」とは「法令遵守」ということである。「法令を守る」ということがどうしてそんなに大きな社会的な問題となるのか。いろいろ考えて、やっと分かったのは、社会のあちこちで、あまりにも法令が守られていない、ということであった。社会の現状がそのようであるのなら、「コンプライアンス」が声高に叫ばれても致し方がないというところであろう。

 「インフォームド・コンセント」に対応する英語はinformedとconsentの2語である。このうちinformedは過去分詞で、受身形が含意されているので、「だれか(この場合は患者)」が、「ある情報(この場合は患者の病状に関する情報)」を伝達されている」ことを意味する。伝達の担い手は、いうまでもなく、担当医である。consentは「だれか(この場合は患者)」が「だれか(この場合は担当医)[患者の病状に関する担当医の見解]」に同意することを意味する。つまり、「インフォームド・コンセント」をゆったりと英文解釈すれば、「患者が自分の病気に関し、担当医から説明を受け、病状に関する担当医の見解や判断を受け入れること」ということになる。つづめていえば、「納得ずくの診療」というくらいになるであろう。

 今度は、次の (5) をみることにしよう。

 

(5) The fifth day saw them at the summit.

 

これに対応する日本語文を次の (6) に示す。

 

(6)
a.
五日目が彼らを頂上にみた
  b.
五日目になると彼らの姿が頂上に見えた

 

 この場合、問題となるのは (6a) である。(6a) は、通例、直訳と呼ばれるが、直訳とは何かというと、あまり明確な定義はないようである。直訳の同義語といってよいものに、逐語訳がある。直訳に相対している非直訳的な訳は意訳と呼ばれる。では、This is a pen. を「これはペンです」と訳したらどうなるか。これは直訳ですか、意訳ですか、逐語訳ですか、と問う人もいないであろう。

 このようにみてくると、直訳・意訳の区別が問題となってくるのは、訳文が、「なだらかな自然の日本語として読めるかどうか」ということがかかわっている場合に限られるということが分かってくる。が、これらすべての場合に当てはまる重要な条件が一つある。それは、「自然な日本語でなくても、なんとか意味は通ずる」という一点である。「全く意味が通じない」という日本語を日本語と呼ぶことはできない。翻訳の場合であっても、意味が全く分からないというのであれば、それを直訳と呼ぶことはできないであろう。

 ここで、もう一つ、次の (7) をみることにしよう。

 

(7) John opened the door with the key.(ジョンはその鍵でドアを開けた)

 

この場合、文中の名詞はすべて文の主語となることができる。念のため、(8) に例を示す。

 

(8)
a.
The key opened the door.
  b.
The door opened.(ドアが開いた)

 

問題は (8a) のほうである。次の (9) はこれに対する訳文である。

 

(9)
a.
その鍵がドアを開けた
  b.
その鍵でドアを開いた

 

問題は (9a) のほうにある。いままで取り上げてきた例の中で (9a) と同じ趣旨の問題を示していたのは、(6a) であった。(6a) と (9a) とが共有している問題点を整理してみることにしよう。

 両者とも直訳体の日本語である。なだらかな自然の日本語ではない。では、その直訳体で自然でない日本語といったのは、何語であるといえばよいのであろうか。まず、英語ではない。これは動かしがたい。では、日本語であるのかと問いつめられると、答えに窮する。なだらかでない、ちょっと、へんてこりんなところのある日本語みたいなものを、日本語であるといってよいのか、ということである。

 「日本語ではない」と言い切ることができれば、ことは簡単である。が、そうなると、「日本語であるもの」と「日本語でないもの」との境界線があらためて問題となってくる。ひところ話題となった「何が彼女をそうさせたか」なども、日本語ではないとされるに至るであろう。

 が、そうなると、「やや行き過ぎ」という感じを伴うことになるのではないか。むしろ、ちょっとパンチのきいた新しい日本語の表現力を奪うという結果を招くことにもなりかねない。

 もう一歩、踏み込んで、どうしてそんな中途半端な、捨ておいてもたいしたことはない音声連続体にこだわるのか、と自問してみると、際立った答えが一つ、得られるように思われる。「それらの中途半端といってよい音声の連続体が日本語の中で理解可能な意味をもっている」ということである。つまり、意味が分かるのである。

 今度はこの意味を出発点として考えてみることにしよう。すると、直訳の場合も、意訳の場合も、意味は、概略、同一であると考えることができる。これに対し、形のほうは二つに分かれる。一つを「整合形」(congruent form)、もう一つを「文法的メタファー」(grammatical metaphor) と呼ぶことができる。整合形というのは、いわば、意味も形もまともなもの、文法的メタファーというのは、意味はまともでも(日本語のほうの)形は(英語の影響を受けて)ややゆがんでいるもの、ということになる。(congruent formやgrammatical metaphorという用語はM. A. K. Hallidayが英語について用いているものである。また、安井稔 (2013)「文法的メタファーを考える」(『ことばで考える』開拓社、所収)も参照。)

 

著者名:安井稔
専門は英語学で、著書・論文は多数。長年、伝統文法のわく組みの中に、新しい言語学の知見を盛り込み、平易な形で読者に情報を提供した。2016年逝去。



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